透明になる写真家 -川島小鳥『未来ちゃん』-


前回の記事で書いた、川島小鳥写真集『未来ちゃん』(ナナロク社)。

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決定的な一瞬を狙って「ここだ!」とシャッターを切る。
佐渡で暮らす3歳の女の子「未来ちゃん」の無邪気な姿を
絶好のタイミングで切りとっている。

ふと思った。

この写真集の面白さは、
キュートな未来ちゃんだけではないような気がする。
「かわいいなぁ」と微笑みつつ、
本を閉じて、書棚に戻すだけでは、何だかもったいない。
でも、それはなんだ。

前回のブログ記事で、
「この写真集のおもしろさは、ふしぎな距離感だと思う」と書いたけれども、
そうだとして、じゃあそのふしぎな距離感とは一体なんだろう。

   (川島小鳥は)自由に走り回る彼女の傍らに、
   いつもカメラを一つぶら下げてすっと控えていて、
   淡々とシャッターを切っていく。
 
   「大袈裟な言い方だけど、無になろうとしているのかな……」

   川島小鳥インタビュー《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」 ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

なるほど。「無になろうとしている」か。

何かに夢中になったり、没頭していると、
「えっ、こんなにいっぱいのことを思ったり考えたりしていたはずなのに
 まだ5分しか経ってないのか」とか、
「好きなことやってると時間が経つのが早いなぁ」とか、
時間の感覚が飛ぶようなあの感じ。
「無になる」というのは、たとえばそんなことだろうか。

そういった意味でいうと、
まさに、無の境地であそび続けている人こそ「未来ちゃん」だ。
カメラという“わざとらしさ”を含む視線がすぐそばにあることなんて意に介さず、
自由にあそぶひとりの女の子。
その無邪気な姿をありのまま撮ろうとして、自らの存在を消していく写真家。

気のむくままに無心になって全力でいまを楽しむ「未来ちゃん」と、
自分の存在を空気のように無にしてそっとカメラを構える川島小鳥。
ふたりの“無になる時間”が、この写真集の一枚一枚におさめられているようにも思える。

この写真集を見ていると、
「未来ちゃん」のように、あるいは川島小鳥のように、
読者である自分もまた段々と無になっているのかもしれない。

ページをめくっていくうちに
急にカメラ目線の「未来ちゃん」と
目が合うとドキッとする。

そしてまたページをめくると、
「未来ちゃん」はカメラなんでそっちのけで、
あそびに熱中している。

ツンデレなのか。

目が合ったり、あっちへ行ったり、
たったひとりの女の子に翻弄され、
自分という存在が揺さぶられる。

家族が子を撮るような安心の距離だけでもなく、
傍観者が誰かを撮るようなさびしい距離でもない。
お互いが無になる不安を生むふしぎな距離関係。

「未来ちゃん」とは、この子の本名ではないらしい。
川島小鳥氏が「未来ちゃん」と名づけたその真意は知れないけれども、
未来とはつまりこれからのこと。
明るい未来に向かって生きていくこと。
そして、いつか消えてなくなるということ。

夢中になって無心になってあそぶ女の子と、
その姿とその瞬間を切り取るために
シャッターを押すたびに自分の存在を消して
無になっていく写真家。
無に満たされるふたり。しかし、たしかに存在しあうふたり。

不思議な距離感とは、
ふたりだけの儚(はかな)い距離なのかもしれない。

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存在を消し透明になることで、被写体の“わざとらしさ”も消えていく。



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by hiziri_1984 | 2012-11-20 00:32 | 瀆書体験  

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