決定的瞬間


東急東横線の渋谷駅ホーム内に
嵐のアルバム発売告知巨大ポスターが
連貼りで掲載されている。

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女性たちがぞろぞろ湧いてくるように現れ、
これを撮影しては去っていく。

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それぞれ自分の好きなメンバーを思い思いの角度からパシャパシャ。
連れ合いで来ている人たちは終始ニコニコキャッキャッしていて、実に楽しげだ。

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よく見ると、嵐の面々はちゃんと“撮られ顔”になっていて、
ということは、ここに掲載する前提での企画ってことなのかな。
(自分の見たところ、ニノミヤ君が一番人気であった)

約30~40分の間、嵐ファンたちは絶えることがなく、
この人たちはこれを撮影するためだけに
駅に入場しているのだろうか。

自分がなぜそんなに長時間その様子を見ていたのか、
念のため申し上げておくと、
人身事故の影響で止まっていた東横線の運転再開を
ずっと待っていたからである。
彼女たちにしてみれば、都合がよく、
思う存分写真を撮るチャンスであったわけだ。

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「嵐って人気あるな。自分も生まれ変わったら嵐になりたい」
と思いながら、ボーっと眺めていた。

すると、
ひとりの女性A(20代OL・CLASSY、oggi風)がポスターを撮影中、
そのAの前をデジカメを持った女性B(30代OL・素朴な感じ)が通り過ぎようとしている。
次の瞬間、BはAの撮影の邪魔にならぬように腰をかがめ、
片手を拝むように前へ差し出し、その手刀を上下に動かしながら、
サササッと小走りでAの前を通り過ぎた。
サラリーマンがよくやるあれだ。(自分もよくやるが)
「さーせーん(すいません)」という声がこちらに聞こえてくるくらいの感じで。

可笑しかった。
ポスター前の空間が嵐ファンたちの空間として
グッと立ち上がってきた、という感じか。
Bさんのサラリーマン顔負けの立ち居振る舞い、
AさんとBさんの格好や印象のちがいもよかったのかもしれない。
その一瞬の光景をぜひ撮影したかった、と思った。

こういうのを写真アートの世界では、「決定的瞬間」というのだそうだ。
(もちろん自分の撮りたかった瞬間は芸術的でもなんでもないが)

 動作中の諸要素がみごとに釣り合う瞬間がある。
 写真はその瞬間を捉え、その均衡を不動のものにしなければならない。
         ―ラッセル・ミラー『マグナム』木下哲夫訳(白水社/1999)―

写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの作品を見て、
なるほどと思った。お見事!と言いたくなる一瞬をとらえている。
まるで演出された、嘘のような一枚だ。
(「サン=ラザール駅裏」と画像検索すれば出てきます)

写真は英語で「photograph」。
どこにも「真実を写す」という意味は含まれていない。
つまりは写真とはあくまで日本語訳における造語であり、
直訳するのであれば光画の方が意味は近い。

写真=真実を写す、ものではないというところから、
写真家ホンマタカシ氏の「写真」が始まる。

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『たのしい写真 よい子のための写真教室』 ホンマタカシ (平凡社)
(上記ラッセル・ミラーの引用も本書から)

写真は現実をとらえたものであると同時に、
いまやプロ・アマを問わずフォトショやマック、その他を使えば、
写真はどうとでも編集・加工が可能だ。
レタッチされて一切のシミ・シワが消えた女優やアイドルたちのなんと美しいこと!

ヴォルター・ベンヤミンの「(写真は)本物にたどり着かない芸術」という言葉を引用しつつ、

 もし仮に真実と嘘があったとしたら、写真はそのどちらにもなり得るもの、
 あるいはそのふたつの間を行ったり来たりするものです。
 《中略》
 自由に、多義的に、いかがわしく。だからこそ今日的。
 それが写真のたのしさだとボクは思うのです。

というホンマタカシ氏の文章には
おもしろがりの性質が底にあって
写真ってなんかもっと楽しめるのかもしれないと思わせてくれる。

写真家の話がなぜこんなにおもしろいのだろう。
それはおそらく、彼らが
街を、村を、自然を「歩いて」「立ち止まって」「見つめて」いる人たちだからで、
それはホンマタカシ氏の言葉でいえば“世界をどう捉えているか”ということ。

路上に繰り出す写真家たちは、街から街へ行ったり来たり、
嘘と真実の間を行ったり来たりして、
なにを感じているのか。考えようとしているのか。
彼らの眼差しや彼らが捉えているものを
街をぶらぶらしながら、真似してみたくなるのだ。

また、そこにはなにか、
たのしいことやおもしろいことは、
自分の内にある世界を追求したり表現するよりも、
外の世界にこそある(のかもしれない)というモチベーションがあるようにも思えて、
共感することも多く、また色々な写真が見たくなるのである。

写真は絵画的役割から飛び出して、
アンリ・カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」、
画面の被写体すべてを等価にする「ニューカラー」、
そしてさらに多様性をきわめる「ポストモダン」へ。

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技術の進化とともに変化してきた写真(芸術)の歴史を学べる講義、
映画をはじめあらゆる芸術とクロスする語り、
生態心理学者や小説家との対談、ワークショップによる実践。
自分はカメラを所有していないので、
“4×5では120ミリのレンズを使う”とか“125分の1秒”とか
技術的な話はよくわからないけれども、
写真の多様な楽しみ方が書かれていて、ワクワクする。
それは自分の場合、当てもなく歩く楽しみにもつながり得る。

本書から派生して、しばらく写真尽くしの読書。

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『天才アラーキー 写真ノ方法』 荒木経惟 (集英社新書)

本当だけど嘘、嘘だけど本当。
真実ってなに?女性?愛?S×X?死?
アラーキーの身体からしか出て来ないような肉感的文章。
読んだ後、保坂和志の「小説は小説を読んでいる時間の中にしかない」という
言葉を思い出したりして。とすれば、本書は新書の体裁ではあるけれども、
充分小説なのじゃないかつって、もう何度も読んでいる。


『この写真がすごい 100photograph 2008』 大竹昭子 (朝日出版社)

何がすごいのか、を丁寧に言葉にする。
すごく丁寧。それでいて簡潔。
イメージを左脳的に言葉に置き換えるのがお上手でいらっしゃる。
そして、写真に対する愛を感じる。
もし自分がカフェや喫茶店を経営するなら、ぜひ置きたい一冊。
「何かいい」とか「何か分かる」の「何か」って、
こんな風にアプローチしてみるとよいのかぁと思った。
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by hiziri_1984 | 2012-11-01 23:58 | 瀆書体験  

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