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檸檬の流儀

過日、王子あたりをぶらついた。

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梶井基次郎の『檸檬』に次のような一節がある。

 何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに
 強くひきつけられたのを覚えている。
 風景にしても壊れかかった街だとか、
 その街にしても他処他処(よそよそ)しい表通りよりも
 どこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったり、
 がらくたが転してあったり
 むさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。
 雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、
 と云ったような趣きのある街で、
 土塀が崩れていたり屋竝が傾きかかっていたり―
 勢いのいいのは植物だけで、
 時とするとびっくりさせるような向日葵があったり
 カンナが咲いていたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、
 ふと、其処が京都ではなくて
 京都から何百里も離れた仙台とか長崎―
 そのような市(まち)へ今日自分が来ているのだ―
 という錯覚を起そうと努める。

この文章を読んだとき、
“あ、自分と同じようなことを思ったり、考えたりする人がいる”
と思った。僭越ながら。

この一節は、実は『檸檬』そのものを読んだのではなく、
漫画家・つげ義春の一作に引用されているのを見つけたのだった。

それは『近所の景色』という作品で、
うらぶれた集落の風景を描写した写実的な絵に
上記の一節が添えられており、その後で、

 私は梶井のこの繊細な感覚が好きだ。
 これは梶井の存在の不確かさに揺れ動く不安な心をみごとに表している。

という一言を主人公に語らせる。

自分が裏通りや陽の当たらない通りを行きたくなる気分が
『檸檬』の一節に書き表されている感動と、
その気分がつげ義春の影の濃い作品世界で
いきいきと息づいているおもしろさ。

自分と似たような感覚を見つけるというのは、
読書する愉しさのひとつであるし、
(それは読書だけに限らないけれども)
なにより、阿呆な我が身が肯定されているようでうれしい。

特に行く当てもなくぶらぶら歩いていると、
檸檬の気分が向こうからやってくる。

いつもそうというわけではないけれども、
その気分と街の景色とがシンクロし出すと、
ひとりでいる時間がすこし充実する。
檸檬の調子に乗って歩いていける。

by hiziri_1984 | 2012-08-28 00:09 | 瀆書体験  

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