本当に大事なモノだったら、なくならない。

子どもの頃、自分の宝物を空のビスケット缶に詰め込んで
お気に入りの場所に隠す、というひとり遊びをやっていた。
その隠し場所が、
家の中ではなくて外だったのがこの遊びのポイントだった。

近所の団地の裏手に人気のない場所があって、
隠し場所はそこの排水溝。
そのあたりは椿やつつじ、紫陽花などが植え込まれていて、
排水溝の上に葉が覆いかぶさって
ちょうどうまい具合に死角になるところがあった。
そこに宝物箱をそっと隠した。
ちょっと離れて見てみる。うん、見えない。隠れてる。

ビスケット缶の中身はたしか、
父からもらったdunhillのライター、キュベレイのガン消し(ガンダムの消しゴム)、
祖母からもらった亀のお守り、いちばんよく飛ぶ紙ひこうき、
ドラクエⅡのファミコンカセット、
ビール瓶の王冠コレクション、聖徳太子のお札など、
他にも色々入っていたような気がする。

“自分にとって本当に大事なモノなら、外に置いてもなくならない”

自分で自分を試すような、
あるいは宝物に自分が試されているような、変な実験めいた遊び。
もしもなくしたら、親に「どこやったの!?」と怒られるかもしれないし。
いけないことをやっている感覚があった。

隠し終わると、足をバタバタさせたいような、
いてもたってもいられないというきもちになり、
お腹の下あたりがムズムズした。

誰にも見つからないように、そっと団地裏の茂みから抜け出した。
すごくドキドキしていた。
とにかく、ケーサツに見つかったらまずい。(アホか)
架空の敵を相手に、忍者気分でダッシュで家に帰った。
(いま思うと、この昂揚は梶井基次郎の『檸檬』を読んだ時のそれに似ている)
晩ごはんを食べていても、テレビを見ていても、
宝物箱が気になって気になって仕方なく、
また、それを思い起こす度にお腹の下がムズムズした。

翌日、下校途中に急いで茂みへ行った。
通りの方から、学校帰りの生徒たちのふざける声が聞こえる。
スッとしゃがんで、そっと覆いかぶさっている葉をよける。
宝箱は、まだあった。中身も無事だ。
よかったぁ、やったーと思う反面、おかしいのは、
無事だったことにもの足りなさを感じたことで、
その物足りなさを埋めたかったのかどうか、
宝箱からドラクエⅡのカセットを取り出し、
ラスボスを倒しすっかりクリアしたにもかかわらず、
家に持ち帰ってプレイして後、夕方また宝物箱に戻したりした。
「外にしまう」という妙なたのしさがあった。

そこで記憶は途切れる。
その先どうしたか、思い出せない。

覚えているのは、ある日見に行くと、
宝箱がなくなっていたということ。
それが隠した日からどれくらい経った日なのか、さっぱり記憶にない。
ただ、雨で流されちゃったんだな、という結論で
自分を納得させて、落ち着かせたような気がする。

宝箱がなくなったことに対して、多少の悔しさはあっても、
思ったより大きな悲しみが湧かなかったように思う。
もうその時は、別の遊びに情熱が向いていたのかもしれない。
飽きっぽいのは、いまもあまり変わっていない。

宝物を安全な家の中じゃなくて、外の誰にも見つからない場所に隠す。
自分の大切なものが外の世界にさらされてしまうドキドキ感。
それを自分で行う自虐感。
当時、それを認識してはいなかったけれども、
言葉にするとそういう楽しさだったのだろう。

不意に、父からもらったdunhillのライターのことを思い出して、
芋づる式に「宝物隠し」遊びの記憶が出てきた。

変な遊びだったなぁと振り返りつつ、
あるいは、自分のマゾヒスティックな性質は
こういう遊びによって開発されていったのではないかと思ったりもした。
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by hiziri_1984 | 2012-04-03 02:41 | 散文  

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