ヴィム・ヴェンダース監督 「Land of Plenty」


“テロリストはどこにいる?”
「自由の国」から真実へ向かうロードムービー


Land of Plenty (2004 アメリカ)
監督/ヴィム・ヴェンダース
出演/ミシェル・ウィリアムズ、ジョン・ディール 他


9.11から2年と1日後から映画は始まる。舞台はロサンゼルス。
9.11以降、愛する母国を見えざるテロリストから守る正義の男。
彼はベトナム戦争の後遺症を身に抱えながらも、
誰に頼まれたわけでもなく、自らの意志でロスの街を自警していた。
そこにアメリカ生まれアフリカ育ちの姪・ラナがやってくる。
ネットや旅を通じてフラットな世界観を身につけた彼女がアメリカで見たものは、
豊かな経済大国でも、夢を掴むチャンスにあふれた自由の国でも、
世界を導くリーダーシップに溢れる国でもなかった。

この映画はドキュメンタリーではない。
でも、9.11の真相や「アメリカンドリーム」が
国を世界に知らしめる誇大宣伝広告に過ぎなかったことが分かったいま、
アメリカのリアルな姿のひとつがおそらくまちがいなくここにある。
ヴェンダース監督は、ロスの貧民街にも、
そこで暮らす人々に手を差し伸べることをタブーとする政府の方針にも、
テレビばかりが世界とつながる窓になった地方都市に暮らす人々の現状にも、
容赦なくカメラを向ける。

終盤、叔父と姪はニューヨークを目指してクルマで駆け抜ける。
アメリカを愛し信じる強く哀れな叔父と、
彼に寄り添いながら世界をも愛そうとたくましく生きるラナのまなざしが
同じ方向を向いて走り出すとき、
そこには他のどこにもない、哀愁とかなしさをまとったひとつの国の実相が見えてくる。

地方都市のハイウェイ沿いで、
ラナが「truth(真実)」と「consequence(必然・結果)」が表裏一体であることを
微笑みながら見つめるシーンは、
ヴェンダース作品屈指のやさしさと美しさに満ちたシーンだと思う。


e0218019_21551057.jpg


※フリーマガシン寄稿原稿

[PR]

# by hiziri_1984 | 2013-11-09 22:01 | お酒を頂きながら鑑賞  

路上から立ち上がるモノ


路上にはいろいろあるのだから、
やはりぶらぶら歩いてみないといかんなと思った。

e0218019_23443695.jpg


〇蔵〇杉にて。
木造アパート一階の郵便受けにあった張り紙。

最後の一文が効いている。
倒置法だ。

もしかすると、締めの一言は、
初め書く気はなかったのではないだろうか。
スペースが残ったから、
思わず書いちゃったのではないだろうか。

でもそういうところにこそ「出ちゃってる」。
思いや怨念が噴出している。
おもしろい。

辺境に来たような気分になった。

ゴーリキーの『どん底』を思い出したりもした。
[PR]

# by hiziri_1984 | 2013-09-24 23:59 | 情景採取  

いま、大人たちにこそ「小劇場」という冒険を。


舞台の広さはおよそ10畳、客席は100人入ればほぼ満席。
東京のアンダーグラウンドにある、
決して大きくはない劇空間。そこで、きょうも静かに幕が上がる。
「小劇場」。それは臨場感と迫力に満ちた演劇の現場だ。
演者と観客がひしめく濃密な空間で、
ここにしかないドラマが立ち上がっていく。



■テレビにも映画にもない「人間の迫力」
目と鼻の先で演技が繰り広げられることほど、
非日常的かつ刺激的な体験も少ないのではないだろうか。
役者たちの息づかいまで伝わってくる距離感、舞台の熱気を肌で感じる臨場感。
観客は、激しくエモーショナルに動く役者の一挙手一投足、細部にいたる演出、
その一部始終を「生」で目の当たりにする。
そう、テレビドラマや映画とはちがう。すべてが「生」なのだ。

小劇場で演じる役者のほとんどは職業として演劇をやっているわけではない。
それぞれが演劇とは別の仕事に従事し、
合間をぬって稽古に励み、自分もひとりの観客として小劇場へ足を運ぶ。
そして、自らの舞台に立つ。
彼らは小劇場にしかない何かを感じ、魅せられたファンのひとりに他ならない。
ファンの愛は、時に本職の人のそれを凌駕し得る爆発力を秘めている。
だから小劇場では時として「事件」が起きる。
大劇場の舞台で繰り広げられる最大公約数的な物語では描けないドラマの迫力が、
不意に現れるのだ。
その時、観客は目撃者になる。
テレビやスクリーン越しに見る別の世界ではなく、「いまここ」にしかないものを目撃する。
大舞台でロングラン公演を果たす俳優や劇作家の中に
いまも小劇場にこだわる人が数多くいる理由はそこにあるのではないだろうか。
小劇場にこそ演劇やドラマの本質がある、と言えるのかもしれない。


■あなたの日常に新しい刺激を
東京は世界一小劇団が多い都市と言われる。
その中のひとつ、劇団「アカネジレンマ」。
その主宰であり、脚本・演出を担当する永利祐太もまた、
小劇場ファンのひとりであり、都内の小劇場に通う中で感じた「何か」が
劇団立ち上げの原動力となった。
彼はその何かを「温度」であると語る。
劇団の旗揚げから8年、
“等身大の人々が過ごす日常の中でふと現れる劇的な瞬間とその一期一会”を
描き続けてきた彼らの舞台には、たしかに小劇場でなければ伝えられない温度が息づいている。
一筋縄にはいかない不条理や葛藤を抱えながらも前へ進む物語に、
観る人は共感し、ふしぎなぬくもりを感じるだろう。

小劇場での体験はきっとあなたという存在に揺さぶりをかける。
それはいま仕事や生活に励む大人たちにこそ、ぜひ一度飛び込んでほしい世界だ。
学校を卒業し、社会に出て働き、家族をつくる。
さまざまな人生の場面を経て、
豊かな経験を積んできた大人たちにこそ、いまきっと小劇場が面白い。
「生」のドラマは、あなたの人生に新しい刺激をくれるはず。
舞台で躍動する役者たちの表情、息づかい、体温にふれた時、
あなたは何を感じるだろうか。
激しい喜怒哀楽に翻弄されるか、
あの頃の記憶が甦るか、
明日を生きるヒントを得るか―

小劇場の体験は、あなたの日常をあたらしい角度から照らす。
舞台を見終えて一歩劇場を出たとき、
きっといつもの風景がすこしちがって見えるはずだ。

e0218019_21372931.jpg


 ↑
 ↑
自主制作しているフリーマガジンに寄稿しました。
(掲載誌元→http://drawtokyo.jimdo.com/zine/
友人がやっている劇団の紹介に寄せて、
「小劇場」という世界の面白さについて書いた記事です。

小劇場、一度体験してみる価値はあると思います。
以下、せっかくなので友人の劇団の紹介です。


夜になり、また朝が来る。
その当たり前のループへのささやかな反抗、
一期一会の群像劇を。

アカネジレンマ
アカネジレンマは、映画でも小説でも表せない、小劇場でしか伝えられない温度を持つ作品にこだわっている。世界にとってはちっぽけかもしれないが、自分にとっては存在をも揺るがす大きな出来事を縦糸に。人々の生活のなかに、あるいは非日常のなかに、滲み出てくる些細な心の動きを横糸に。そのふたつの糸が絡み合い、劇場を出れば、いつもの景色やいつもの人々が少しちがったように見えてくる編み物を、私たちは不器用な手で織り続けている。
現在、2013年内公演に向け着々と進行中。
http://www.akanedilemma.com
[PR]

# by hiziri_1984 | 2013-07-03 21:46 | お酒を頂きながら鑑賞  

EDIT-REAL


ゼロからイチを生み出す人というのはかっこいい。
いわゆるアーティストとかクリエーターと呼ぶにふさわしい人たちだ。

ちょっと昔(10年前くらい?)に比べると、
そんな人たちはグンと増えた。
増えたというか、今まで表に出にくかったものが、
見えるようになったという方が近いのかもしれない。

たとえば、私のごくごく身近なところでいえば
YouTube・ニコ動ではアイディア系おもしろ動画や
かっこよろしい音源が連日アップされるし、
ブログを見ればグッとくる写真やコラムが掲載されている。
SNSでもポンと膝を打つような投稿があったりもする。
同人誌のフェスなんかにも行った。

つくる楽しさが連鎖して
一億総クリエーターなんて日もそう遠くないのかもしれない。

そんな時代にあって、自分はどうしているかというと、
そうした次から次へと世に現れるモノ・コトや作品を
どうすればもっと愉しめるのかと考えたりしている。
創作と鑑賞、その鑑賞の方に注力している。
体験することとその愉しみ方を、もっともっと深められないだろうか。

それを考えるに当たって、とても示唆に富む一冊があった。
(いつか読もうと思って書棚にしまいっぱなしだった一冊)

e0218019_1136513.jpg

『千夜千冊』などで知られる
松岡正剛氏の『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』(講談社現代新書)。

メソッド・啓発本の類は好きではないけれども、
氏の書評を読んで関心が湧いたので
どういう風に読書をしているのか気になり、数冊手に取った。


   あれこれの情報が「われわれにとって必要な情報」になることを、
   ふつうは「知」といいます。情報をそのような「知」にしていくことが編集なのです。


という前書きから始まる本書は、あらゆるものを編集という視点で考えていく。
ここでいう情報とは、
TVやネット、新聞などから享受するニュースだけではなく、
生活、対人関係、芸術などあらゆる外からやってくるものを意味する。

映画、音楽、小説、哲学、新聞、日常会話、子どもの遊びなどなど
多岐にわたる分野のそこにある編集の仕組みを顕在化させ、
ひもときながら、彼独自のそれでいて普遍的な新しい編集術をつくる。

真面目不真面目、ウソとホント、関係無関係、大小、濃淡
さまざまな情報がうっとおしいほどひっきりなしに入ってくるいま、
エディトリアルのもつ機能性と可能性にワクワクした。

編集というとなにかをまとめたりするというイメージがあるけれども、
本書で語られる編集はどうやらちがう。


   編集術は整理術ではない。情報を創発するための技術なのである。
   創発とは、その場面におよぶと巧まずして出てくるクリエイティビティのようなもの
   をいう。あらかじめ準備しておく編集も大事だが、その場に臨んでますます発揮
   できる編集力、それがいちばん重視する創発的な技術というものだ。


遊び、連想、再構築、発見、それから表現。
稀代の読書家である松岡正剛が提唱する「編集」には
おそらく死ぬまで情報を浴びつづけて生きる中で、
たくましく、おもしろく、それらを愉しむヒントと方法が
ていねいに具体的に書かれている。

ちなみに、『多読術』(ちくまプリマー新書)という著書では、
読書において彼の編集術が発揮されており、
本を読む愉しさの多様性がとてもラディカルに書かれていて、こちらも良書。

多くの人が創作表現活動を愉しめる時代。
プロとアマの境界線が曖昧になってきているし、その基準は揺らいできている。
「なにがおもしろいのか」「なにを優れていると感じるか」を自分の感覚をひらいて、
積極的におもしろがるために「編集」はキーになると思った。

いわば、創作はゼロからイチにする。
編集はイチ+イチをサンにする。
雑誌や本の編集者はもちろん、
映画監督、オーケストラの指揮者、DJも編集者だ。
工夫や方法次第で、
世にあまたあるモノ・コトを鑑賞・体験し、
それを素材にして充分に愉しむことができる。

自分がなにか生み出さなくてもいい、というくらいの清々しいスタンス。
前向きなひらきなおり。
まずはそんな気分で、音楽を聴き、映画を観て、本を読みたくなる。
誰かと話したくなる。

その先、またつくる愉しさへ進む気もするし
そうで無いような気もするけれども、
まぁそれは横に置いといて、
まずいまなにかしようと思い立つ開放感にあふれる。
[PR]

# by hiziri_1984 | 2013-05-31 12:35 | 瀆書体験  

処女作にすべてあるか

処女作にはその作家のすべてがある、
なんてことがよく言われる。

最近読んだ、保坂和志・小島信夫の『小説修業』(中公文庫)に、

   何十年か続く小説家人生を通じてどういうことを書いていきたいかという、
   漠然としているように見えて本当のところ確固としたイメージを
   デビュー前から持っているような人でなければ小説家にはなれない。
   デビューというのはそういう意志が社会と交わる瞬間みたいなものにすぎなくて、
   つまり、すべての小説家はデビューする前から
   小説家としてのキャリアが始まっている。

という一節があった。

たしかに、時と場を越えて読み継がれている小説家ほど
しつこくしつこくひとつのテーマについて書き続けている。

そのテーマは例えば「人情」であったり「愛と裏切り」であったり、色々ある。
ひとつのテーマを追い続けて、その先にまた新しいテーマが湧き出てきて、
スタート地点からは思いもしなかったところにいたって、
「ずいぶん辺境まで来たな」と感じる小説ほどおもしろい。

すこし話がズレたので元に戻って、
“処女作にはその作家のすべてがある”である。

大学時代から読み続けているドストエフスキーについて、
どうも“処女作には~”が当てはまらないような気がするのだ。

彼の処女作『貧しき人びと』。
どんなストーリーであったか。
手元にある新潮文庫の裏表紙にはこう書かれている。

   世間から侮蔑の目で見られている
   小心で善良な小役人マカール・ジェーヴシキンを
   薄幸の乙女ワーレンカの不幸な恋の物語。

ドストエフスキーの諸作に漂う
印象だけで言えば、暗くなんとなく救われないような雰囲気は
たしかにある。
しかし、大学時代に読んだとき、
『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』などに比べると
どうも「人間の神秘を解き明かす」という人間の本質に迫る
ドストエフスキーの迫力に欠けて、おもしろく感じなかった。
実際、『貧しき人びと』に関する批評文や論文は少ない。

それというのも理由があって、
ドストエフスキーはこの『貧しき人びと』でデビュー後、
危険思想犯として逮捕され、極寒のシベリア監獄に流刑されてしまう。
そして、その獄中での体験が彼のその後の作家人生に多大な影響を及ぼし、
また執筆に駆り立てるテーマを与えるのである、
とされているからである。
(獄内の体験については『死の家の記録』を読まれたし)

つまり、一般的にドストエフスキーの小説家としての本格的なスタートは
出獄後に発表された『地下室の手記』ととらえられる。

事実、『貧しき人びと』にはドストエフスキー作品の重要なテーマのひとつである
「神」や「良心」についてほとんど書かれていない。
書かれていないというのはウソか。薄いと言った方がよいかもしれない。

そんな訳で、自分は『貧しき人びと』を軽視していたのだけれども、
本棚にしまいっぱなしにして約10年、久しぶりになんとなく手にとって読んだ。

おもしろかった。

ちなみに新潮文庫の裏表紙の紹介には続きがある。

   都会の吹きだまりに住む人々の孤独と屈辱を訴え、
   彼らの人間的自負と社会的葛藤を描いて
   「写実的ヒューマニズム」の傑作と絶賛され、
   文豪の名を一時に高めた作品である。

「写実的ヒューマニズム」というのがよく分からない。
辞書を引いて直訳してみる。

【写実的ヒューマニズム】
実際のありのままにうつしだすように描かれた、
人類の平等をみとめ、人類全体の平和の実現を最高目的とする主義

なんだか、余計分からなくなった。
そんなことが、この小説に書いてあったけか。

小説の解説に「薄幸の乙女ワーレンカ」とあるが、
彼女を「薄幸」とのみとらえるのも違う気がする。
薄幸かもしれないが、それゆえに「したたか」ではなかったか。

という感じで、ま、おもしろかったので、
もう一度『貧しき人びと』をちょっとずつ読んでいこうと思う。

[PR]

# by hiziri_1984 | 2013-05-21 23:23 | 瀆書体験