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陽に当たるエロス ― 会田 誠

ふつうこういうものは鑑賞し終わってから書くものだと思うけれども、
鑑賞本番に向けてアドレナリンやらカウパー氏腺液やらが
湧き出て止まらぬので書きヌいておこう。

あたらしいジャパニーズエロスアート。
でもどうやらそれだけではなさそうな・・・

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会田誠展 「天才でごめんなさい」 森美術館

いちおう、まず自分の会田誠体験を振り返っておこう。

会田誠の作品を初めて見たのは10年くらい前。
当時テレビ東京で放送されていた「たけしの誰でもピカソ」という番組で、
少女の髪の分け目がそのまま田園のあぜ道に続いている彼の作品を見た。

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『あぜ道』/1991年(写真1枚目同チラシ裏面より)

テレビの前で驚いた。強烈だった。
なんてユニークなアイディアだ。
今思えば、あれが会田誠だったわけだ。

それからまた別の機会にどこかで見かけたのは、
ウルトラマンに登場する科学特捜隊のフジ隊員が巨大化して
キングギドラに攻められている作品。
半壊したビル街のなかで、半裸にされたフジ隊員が
キングギドラに犯されるように組み伏せられている。
フジ隊員は、それを拒んでいるわけでもなく、
そうしてほしいと思っているようでもなく、受け入れているようなそうでないような、
ただされるがままといった様子で、
「そんなことどうでもいいんだけど」といったような表情で、
虚空を見つめる目が印象的だった。
なんとも見ているこちらの潜在的なところをえぐられた。

その後、昨年、
日本橋高島屋で開催された「ジパング展」で、
人の大きさほどの山椒魚に裸体の少女が添い寝している作品を見た。

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『大山椒魚』/2003年

汚れのないものとグロテスクなものの共演。
絶滅危惧種であるオオサンショウウオを少女がやさしく守るように抱く。
種の保護や継承という意味合いがあるのか。
女性に癒されてその力を回復していくオオサンショウウオ。背景は和柄模様。
まっすぐに解釈すると、失われゆく日本の守護といったところだろうか。
山椒魚は男根のメタファーでもあるか。
リアリティすぎる山椒魚と幻想的な少女のコントラストが愉快だ。

はっきり言えるのは、会田誠の作品に興味が湧いたのは、
そこにアブノーマルやエロをまず感じたからに他ならない。

告知チラシの表面の『滝の絵』もまたエロチックだ。
スクール水着の少女たちが清流で戯れる風景にドキッとさせられる。
ところで、この作品を見て想起したワンシーンがある。

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つげ義春 『ヨシボーの犯罪』  (「ねじ式」小学館文庫より)

この作品は、学生らしき主人公ヨシボーが、
雑誌のグラビアに載っている水着の女性を
ピンセットで刺して食うという妄想からはじまる。
その犯罪の凶器となったピンセットを隠すために
街を自転車で走りまわるという
なんだかいつか夢で見たような内容の作品だ。

あらためて、会田誠の『滝の絵』を見る。

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『滝の絵』/2007-2010

スクール水着の女の子たちは、
ピンセットでブスッといくには、あまりにいたいげで、
未成熟な生き物だ。肉感にも乏しい。
また、彼女たちはまるで置物のようで、
その姿勢のまま永遠に動かないような印象がある。
何かにまたがっていたり、尻をこちらへ向けていたり、
無防備でフェティッシュなポーズのコレクションと言えるかもしれない。
一人ひとりが、フィギュアかマネキンなんじゃないかとも思う。

エロス?フェティシズム?ただのスケベ美術?
なんなんだろう。
ただニヤニヤしながら見ちゃっていいのだろうか。
これは男子たちのアタマの中にある
潜在的な性的欲求のイメージのひとつなのか。

向こうにそびえ立つ山は男根の象徴で、
そこから湧き出て流れる川の水は精液?
とすると、そこで無邪気に気持ちよさそうに遊ぶ女の子たちは・・・
危ういイメージにもなりうる。
と、メタファーの次元だけで見ても、
なんだかこの作品はビクともしないのだ。

しかし、エロ(ス)だとして、
つげ義春のように、暗く、深く、湿った犯罪的な性的欲望の印象が一切ない。

空もあり、日の光もあり、清流があり、
大自然の懐に抱かれて、全体は明るい。
こちらのいやらしい目つきなんて、ものともしない。
実際にこんな光景を目の当たりにしたら、正視できないだろう。
あまりにまぶしくて、いきいきとした生命感にあふれている。

ただ、健康的なシーンではあるけれども、
アブノーマルな雰囲気が漂っているのはたしかだ。
彼女たちの年頃もそうだし、
裸ではなくスクール水着であるのが、むしろ余計にその印象を強める。
滝と大勢のスクール水着という違和感。
斬新で大胆な組み合わせ。おもしろい。

それにしてもスクール水着とは。
“おいおいこんな女の子たちのスクール水着姿を、
 しかもこんなに大勢。なんか、ちょっと、いいのか、おい。でも見ちゃうよなぁ”
というパッと見のインパクトをフックに(完全に男子目線ですけど)
まずこの絵に惹きつけられる。
では、その先に何が見え得るか。

この『滝の絵』をはじめ、
キングギドラの性的攻撃にも動じずに身をまかせているフジ隊員といい、
守護神のように日本の絶滅危惧種を守る少女といい、
女性崇拝的思想とか、
ある種のマゾヒズムというと言いすぎかもしれないけれども、
どこかフェミニズムっぽさを感じる。

そういえば、会田誠の作品には男が出てこない。
(正確に言うと、男が出てくる作品もあるかもしれないが自分はまだ知らない)
出てきたとしても、キングギドラとか、
オオサンショウウオとか、宇宙空間をさまよう巨大なうんことか、
異形のものになって登場する。
なぜか。
それが、男性の本質的な姿だから?
女性の強さや生命力を引き立てるための演出?
自虐的な笑いのため?

それに対して、俗っぽさがみじんもない女性たち。
それも成熟と未成熟の間の微妙なお年頃の子たちだ。
「六甲のおいしい水」とか「ポカリスエット」のCMで表現されるような、
清純で、ピュアで、潤いに満ちたイメージ。
かたい言い方をすれば、汚れのない感じ。

自分は、すこし前に
山は男根、川は精液を象徴するなんて書いたけれども、
むしろ山は母体、川は羊水と捉える方が
正しいメタファーではなかったけか(勉強不足)。

実は、この『滝の絵』を見て想起したものがもう一つある。

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ミケランジェロ 『最後の審判』

どことなく似ていないか?
半裸の者たちが集っていることや全体の構図はもちろん、
色や雰囲気とか。どうだろう。
ん、似てない?全然ちがう?いや、やっぱ似てるって。

  ゴルゴダの丘で磔にされ、人間としての死を迎えたキリストは、
  一度埋葬されるも復活し、様々な奇跡を起こした後に昇天した。
  そして、この世の最後の日に再臨し、
  死者を含めた全人類を、天国と地獄に分ける「最後の審判」に臨むことになる。
  400人近い人がほとんどヌードで登場するこの壁画で、
  ミケランジェロは、人間の筋肉の固有の美と精神性を追求した。
        《「一個人 保存版特集 西洋洋画を読み解く」No.115(2009.12)P56-57 KKベストセラーズ》

上記の引用文を借りれば、
“30人近い女の子がほとんどスクール水着で登場するこの『滝の絵』で、
 会田誠は、日本人固有の美と精神性を追求した。”
と言えるのではないか。

ミケランジェロも、おそらく会田誠も、
作品のテーマにしているのは、
神であり、信仰であり、美だ。(あとエロスも)

ここで、『滝の絵』をグッと目を凝らして見てみる。
すると、彼女たちの中に数人、お腹の部分に縫ってある布によって
それぞれの氏名が分かることに気づく。
氏名を読んでみよう。

高峰、青山、河上、森、滝口、谷、小沢、若林、瀧澤。

ひとり、作品の上に展覧会タイトルが印刷されていて読めないけれども、
皆、氏名に自然にまつわる言葉が必ず刻まれている。

日本古来の神とは、
山や岩や川など自然に存在するあらゆるものを畏怖し、
崇拝する八百万の神であり、
キリスト教をはじめとする一神教とは異なる。
多神教の自然信仰である。

とすると、自然の言葉が刻み込まれた彼女たちは、
神の化身として表現され、そこに存在しているのだろうか。
『滝の絵』の左上部に目をやると、小さなお社が奉ってある。
つまり、あらゆる生命の根源である母体と羊水に満たされたこの空間は、
まさに聖域ということになる。
それが、スクール水着という
いかにも俗っぽい美をまとった少女たちを中心に表現されている、
そのダイナミズムとおかしさ。

『最後の審判』のような神々しさを漂わせながらも、
その一方で、どこか地方の女子中学校の遠足みたいな暢気さもある。
聖と俗が同居し、そのパラドックスが成立している変な空間。

彼女たちがどこかフィギュアっぽく感じられるのは、
永遠に年をとらず、汚れなき姿のままであり続けてほしいという
祈りのようなものが込められているのかしれない。
そして、そこには日本独特のオタク文化さえ包括されている。

なんだか、すごい。

この展示から、あたらしい日本とか日本らしさが見えてくるのかもしれない。
無論、テーマやモチーフはそれだけではないだろう。
観に行くのが楽しみになってきた。
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by hiziri_1984 | 2012-11-22 21:28 | お酒を頂きながら鑑賞  

透明になる写真家 -川島小鳥『未来ちゃん』-


前回の記事で書いた、川島小鳥写真集『未来ちゃん』(ナナロク社)。

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決定的な一瞬を狙って「ここだ!」とシャッターを切る。
佐渡で暮らす3歳の女の子「未来ちゃん」の無邪気な姿を
絶好のタイミングで切りとっている。

ふと思った。

この写真集の面白さは、
キュートな未来ちゃんだけではないような気がする。
「かわいいなぁ」と微笑みつつ、
本を閉じて、書棚に戻すだけでは、何だかもったいない。
でも、それはなんだ。

前回のブログ記事で、
「この写真集のおもしろさは、ふしぎな距離感だと思う」と書いたけれども、
そうだとして、じゃあそのふしぎな距離感とは一体なんだろう。

   (川島小鳥は)自由に走り回る彼女の傍らに、
   いつもカメラを一つぶら下げてすっと控えていて、
   淡々とシャッターを切っていく。
 
   「大袈裟な言い方だけど、無になろうとしているのかな……」

   川島小鳥インタビュー《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」 ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

なるほど。「無になろうとしている」か。

何かに夢中になったり、没頭していると、
「えっ、こんなにいっぱいのことを思ったり考えたりしていたはずなのに
 まだ5分しか経ってないのか」とか、
「好きなことやってると時間が経つのが早いなぁ」とか、
時間の感覚が飛ぶようなあの感じ。
「無になる」というのは、たとえばそんなことだろうか。

そういった意味でいうと、
まさに、無の境地であそび続けている人こそ「未来ちゃん」だ。
カメラという“わざとらしさ”を含む視線がすぐそばにあることなんて意に介さず、
自由にあそぶひとりの女の子。
その無邪気な姿をありのまま撮ろうとして、自らの存在を消していく写真家。

気のむくままに無心になって全力でいまを楽しむ「未来ちゃん」と、
自分の存在を空気のように無にしてそっとカメラを構える川島小鳥。
ふたりの“無になる時間”が、この写真集の一枚一枚におさめられているようにも思える。

この写真集を見ていると、
「未来ちゃん」のように、あるいは川島小鳥のように、
読者である自分もまた段々と無になっているのかもしれない。

ページをめくっていくうちに
急にカメラ目線の「未来ちゃん」と
目が合うとドキッとする。

そしてまたページをめくると、
「未来ちゃん」はカメラなんでそっちのけで、
あそびに熱中している。

ツンデレなのか。

目が合ったり、あっちへ行ったり、
たったひとりの女の子に翻弄され、
自分という存在が揺さぶられる。

家族が子を撮るような安心の距離だけでもなく、
傍観者が誰かを撮るようなさびしい距離でもない。
お互いが無になる不安を生むふしぎな距離関係。

「未来ちゃん」とは、この子の本名ではないらしい。
川島小鳥氏が「未来ちゃん」と名づけたその真意は知れないけれども、
未来とはつまりこれからのこと。
明るい未来に向かって生きていくこと。
そして、いつか消えてなくなるということ。

夢中になって無心になってあそぶ女の子と、
その姿とその瞬間を切り取るために
シャッターを押すたびに自分の存在を消して
無になっていく写真家。
無に満たされるふたり。しかし、たしかに存在しあうふたり。

不思議な距離感とは、
ふたりだけの儚(はかな)い距離なのかもしれない。

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存在を消し透明になることで、被写体の“わざとらしさ”も消えていく。



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by hiziri_1984 | 2012-11-20 00:32 | 瀆書体験  

なにを見てるの、あなたはどうなの


すこし前のこと、
今年の6月に生まれた友人の子を抱いた。
女の子だ。

かわいい。ただただ、かわいい。

胸に抱くと、かすかにふわっと、澄んだうすいミルクのような匂いがする。
こわれものを抱いてるようで、力加減をどうしたらいいのか分からない。
なにかを探すように予測不能に動く手がおもしろい。

抱きながら、おれにもこんな頃があったのかとか、
このまま無事に育てよとか、なんとかして今笑わせたいとか思う。

目が合う。黒目がくっきりとしている。
この子の目におれはどう映っているのか。
男であること、28歳であること、
横浜に生まれ育ち色々あって今ぶらぶらしていること。
そんなことは一切分からず、認識もしていないであろう大きな瞳。
この子の前では、ただの“なんかニヤニヤした肌色のやつ”くらいなものか。

自分がそうであるように、この子もまた
ものごころついた頃にはもう
赤子の頃に誰かに抱かれたことなんてきっと覚えていないんだろう。
そう思ってちょっとはかない気分になって見つめ返すと、
キョロッと視線を別の方へ向けたりして、はがゆい。
そして、愛らしい。

またこっちを見る。
“あなたはなに?”
と問いかけてくるようなまなざし。

そんな瞳には以前、会ったことがある。

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川島小鳥写真集 『未来ちゃん』 ナナロク社

かなり話題になった作品なので、
ご存知の方も多いと思われる。

「未来ちゃん」の黒目がちなビー玉のような瞳は
「あなたはなに?」とか「あなたはどう?」とか問うてくる。

「未来ちゃん」を見ているつもりが、
まるで鏡を見ているように
自分自身を見つめさせる。
大仰に言えば、なんだか存在を揺さぶられる。

一瞬一瞬を爆発させるように全力であそび、
いまのど真ん中を生きている「未来ちゃん」は
溌剌として、ほほえましい。
見ていると、ピュアな心が発動してくる。

子どもを見ると妙に老け込んでしまうのはよろしくないと思うけれども、
28年生きてきたことが、なんだかズシッとくる。

男子ではこうはいかない。
それはおれが男子であるからに他ならない。
男の子は馬鹿で、ただそれゆえの抜けのいい気持ちよさのようなものがある。
年齢こそちがうが、同種の生き物である感じがする。

女の子はちがう。
彼女たちは、なんというか、つよい。
ジッと黙って立っていたりすると、
なんだか意味深で、よく分からない存在になる。
でも、妙に真に迫ってくるものがあったりして悩ましい。

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《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」  ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

手元にあった雑誌BRUTUSの写真特集によると、
『未来ちゃん』に寄せる写真家・川島小鳥氏の写真術とは、
「作り込まない」ことなのだそうだ。

   写真を撮るという行為自体、
   ある“わざとらしさ”を含んでいますよね。
   だから“こっちを向いてほしい”とか、
   “こう動いてほしい”とかいう僕の意図が出ない方がいい。
           《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」  ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

なるほど。そういえば、『未来ちゃん』には、
子どもっぽい媚びが一切と言っていいほどない。

すごいと思うのは、
カットの多くがカメラ目線でないことで、
なんというか、ありのままなのだ。

   そもそも彼女は全精力を上げて自分の人生に集中している
                          《引用元 同上》

らしい。その通りだと思うし、
また川島氏が一年間、彼女と家族同然に寝起きを共にした成果であると思う。
そして何より、カメラを向けても一向におかまいなしの「未来ちゃん」に
被写体としてすごく惚れ込んでいるのがわかる。

川島氏が撮影のルールとして掲げていた「作り込まない」とは、
言い換えれば、つまり「作っている」ということだ。
考えてみればそれもそうだ。
あらかじめ撮影を想定したロケハンもしているだろうし、
カメラを持ってその瞬間を待ちつつ、多少声もかけているはずだ。

でも驚くほど、ドキュメンタリーチックだ。
だから、「なに撮ってんの」とか
「いま、撮った方がいいんじゃない」とか言う声が聞こえてきそうな
カメラ目線のカットがたまに出てくると、ドキッとする。

親が子の成長を見守るように撮影するのとはちがう。
家族でもなく、あかの他人でもなく。
ふしぎな距離感が面白味になっていて、
写真家としての企みがなんだかすごく成功していると思う。

この人は、次はなにを撮るのだろう。
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by hiziri_1984 | 2012-11-19 01:43 | 瀆書体験  

東京を10万歩あるけば


東京と一口に言っても広い。

そういえば、東京は日本で最も狭い都道府県なのに。変なもんだ。

新宿と渋谷なんて、歩けば3、40分ほどの距離だけれども、
街の様子も人もあんなに違う。まるで変わる。

これがたとえば青森県であれば、
弘前市と青森市ほど離れていても
さしてかわり映えはしない。
弘前城を見て、ねぶたを見て、
リンゴとほたてあたりを食べておけば、
まあそれで事足りる。
(なんて書いたら青森人に怒られるか)

しかし、東京はそうはいかない。
店も人も雰囲気も色々な数々の表通りと、
そこからいっぽん路地に入ろうもんなら
またその先に別の街並みがあらわれたりして、目まぐるしい。
くらくらする。

過日、仕事で、といってもまあアルバイトなのだけれども、
丸2日間東京中を歩きまわった。

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新宿の百貨店群、代々木ビレッジ、竹下通り、
表参道ヒルズ、渋谷ココチ、ヒカリエ、
六本木ミッドタウン、ヒルズ、東京タワー、
お台場ジョイポリス、ダイバーシティ東京、ヴィーナスフォート、
豊洲ららぽーと、銀座通り、有楽町、丸ビル、
東京ステーションシティ、上野アメヤ横丁、浅草雷門、
東京スカイツリーなどなど、
都内の各スポットを巡り、
フリーペーパーや案内書の類を収集するという任務を遂行した。
(もちろん途中で鉄道も利用した)

こんな機会がなければ行かないような場所がほとんどだったので、
新鮮であった。

さすがは都内有数のエンタメ・ショッピングスポットだけあって、
建物や敷地内スペースはきちんと空間設計されており、
全体に心地よさのようなものが漂っていて、
訪れる人を楽しませようとする心構えを感じる。

その雰囲気に身をまかせておけばもうOKで、そのうちに
徐々に街の空気と一体になって、
気分もふわっと浮遊してきて、とてもいいカンジである。

表参道なんて、歩道も広くて歩きやすいし、
行き交う人も皆なんとなく上機嫌に思われ、
上質なアーバンライフ感が漂っており、
秋晴れに頬もゆるみ、「うふふ」と微笑んだりすることもできる。

しかし、どうも物足りなさを感じてしまう。

居心地のよい空間で楽しませようとしてくれるのは
ありがたいのだけれども、
もうそこには街や空間のストーリーとでもいうものが既にあって、
それに沿うより他ないというか、
どうもこちらの絵空事が入る余地がない。
ちゃーんと用意されている分、
何かを見つける楽しさがすくないように思う。

歩いていて、なぜかしら細部に目が向かない。
それは、そもそも建ち並ぶブランドショップに
自分がさほど興味が湧かないからなのか。
といって、「けっ、何がブランドじゃい」と
それらをはなから毛嫌いしているわけでもないのだけれども。
まだまだ未熟である。

そんな、ブランドものに縁遠い自分でも
歩いていて楽しいのが銀座で、
勝どきに住んでいた頃は用もないのによく歩いた。
銀ブラだ。お金はないけど銀ブラだ。

   銀座の面白さは、表通りと裏通りを行ったり来たりするとわかる。
   表はハイカラで華やかな大通りなのに、
   一歩裏に入ると工事中の空き地とか、うらぶれた飲み屋があったり、
   反対に、路地のラビリンスからポッと広い大通りに出た時の快感もイイ。
   そのとき見えるのは、風景じゃなくて、「光景」なんだよ。
   光の景色。
   こういうコントラストがあるからこそ、町は面白いんだ。

なるほど、納得である。

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『トーキョー・アルキ』 荒木経惟  新潮社

   街がしゃべってくれるんだから、
   写真はそれを複写するだけ。

   街が「撮って」って言ってるんだよ。

と語る写真家アラーキーの東京歩き。
写真もさることながら、身体性抜群の文章だ。

   東京の街は、風景が「情景」なんだよ。
   そろそろ暮れてきたね。
   たそがれ時は昼と夜の情事の時間だナ。
   サテ、冥土を見ちゃった後は、
   また煩悩の世界に戻らなくちゃ。
   冥土と現実を行ったり来たりするのが、
   町歩きの面白さなんだよ。

聖と俗やら、愛やら、性やら、死やら、
人間の根源的なものにダイレクトにタッチする言葉が
口文体のかるーい言い回しのなかに宿っている。

アラーキーが歩き、出会い、撮り、体験した
青山、渋谷、銀座、本郷、成城、下北沢、品川などなどが
それぞれの「街」として立ち上がってくる。
アラーキー独自の「街」が現れる。

   小説のようで写真、写真のようで小説。

写真と文章が入り乱れて、
街とアラーキー自らの追憶や創意が入り乱れて、虚実が入り乱れて、
時に女性と入り乱れて、
虚構の世界やストーリーが生まれてくる。
本書はやっぱり小説だと思う。
巻末にアラーキーが歩いたMAPも載っているので、
追体験してみるのもよいかもしれない。


もう一冊。

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『東京夜話』 いしいしんじ  新潮文庫

東京を舞台にした短編集。
築地で運命の出会いを果たすマグロとサケ。
そ知らぬ他人の墓石を相手に酒を飲み、
縁なき先祖の過去に思いをめぐらす男などなど。

ちなみにこれは調べものをしていて、
さっき知ったのだけれども、
本書の文庫化される前の原題は、
『とーきょー いしい あるき』だったらしい!

もしかすると、アラーキーの『トーキョー・アルキ』に
インスパイアされて書かれたものなのか。
ともあれ、なんだか妙にうれしい。

本書の登場人物たちもまた、よく歩く。

ぶらぶら歩いていると、ふと横道へ、
もっと奥へ奥へディープな方へ入っていきたくなる。
なにかあるかなーと歩いていくと、急にさびしい場所に出ちゃったりして。
なんだか途方もない気持ちになる。
それでいて、なんとなく懐かしい。

ひとりになるために街へ出てきたような、
そんな気がしてくる。

気付くともう夕暮れ時で、
そろそろお酒を頂きたくなる。
アルコールの力をかりて、現実をぼやかしたい。
どうにかして、目の前に広がる街を異化させて愉しみたい。
路地の先に行き着いた場所からさらに別の世界へ。

読んでいて、そんな衝動が湧いてくる。

どうやら、いや、やっぱり、
東京はちがう世界とつながれる場所みたいだ。

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by hiziri_1984 | 2012-11-18 17:37 | 瀆書体験  

日本最初の「工場萌え」は落伍作家か


ある日の雇い先は、
京浜工業地帯の一画、沿岸にある倉庫だった。

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あたりは巨大な工場と倉庫ばかりで、
大型トラックが行き交う。
倉庫内の休憩所からも工業地帯が望めた。

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自分はいわゆる「工場萌え」と呼ばれる奴で、
工場の姿かたちのかっこよさや
灯りのともった夜の工業地帯のうつくしい様子を見るとうっとりする。
そして、見惚れながら思い出す一節がある。

  ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。
  美というものの立場から附加えた一本の柱も鉄鋼もなく、
  美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。
  ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。
  そうして、不要なる物はすべて除かれ、
  必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。
                          
                        <坂口安吾 『日本文化私観』より>

これはかなりの工場萌え人種がうなずけるのではないかと思う。
かゆいところに手が届いた感じがある。
坂口安吾は、日本最初の「工場萌え」であったのかもしれない。

なるほど、自分が工場に惹かれるのは、
子どもの頃に見た正義のヒーローたちが
ここを舞台に戦いを繰り広げていたからだけでは
なかったのだ。

ちなみに、上記引用文冒頭の「ここ」とは、
小菅刑務所、東京の佃にあったドライアイスの工場、
ある港町に停泊していた無敵駆逐艦のことである。

坂口安吾の「美」に関する考えは続き、

  見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。
  すべては、実質の問題だ。
  美しさのための美しさは素直ではなく、
  結局、本当の物ではないのである。

と語った後、

  法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。
 
と言ってのける思想は痛快だ。
そして、この考え方はさらに文学・小説論へと展開される。

  美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。
  どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、
  ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、
  書きつくされなければならぬ。
  《中略》
  そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、
  美を生むのだ。

坂口安吾曰く、
これが「散文の精神」であり、「小説の真骨頂」であり、
「あらゆる芸術の大道」であると。

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美はつくるものではなく、生まれるもの。

夢の国の夜のファンタジー、
エレクトリカルパレードに美はなく、
工場にはある。たとえばそんなことか。
(あれは美というよりエンターテインメントか)

そういえば、坂口安吾が言及したのは工場であったけれども、
時代は進んでいまや工業地帯である。

ゴーという機械の唸りを響かせながら、
昼夜を徹して稼動し続ける工場たちはもはや企業の所有物ではなく、
知らぬ間にパイプを張り巡らし、沿岸をどこまでも増殖していくイメージが湧く。
沿岸を埋め尽くすように配管が根を張り、
太い幹の先から胞子をモクモクと撒き散らしているようで、
“都市の自然”とでも言いたくなる。

制御不能になった時の怖ろしさを思ったり、
それから、「こんなでっかいもの作っちまって」という
投げやりな怒りもちょっと湧いたりする。

人がつくったものであるのに、人を寄せつけない。
大きな山を仰ぎ見るときのような畏怖が、そこにはあるような気がする。
(実際に巨大だけれども)

以前、はとバスの川崎の工場夜景を楽しむツアーに参加したことがあって、
そのときは、一般公開されていない場所から夜の工場を見られてよかったけれども、
工場が“見られる対象”になった途端になんだかすこし、味気ない感じもあった。

坂口安吾のいう必要に迫られて天然自然に出来上がった美しさと、
どこか不気味であやしい存在感。

この感じを楽しむには、
夜、ひとりで、もしくは恋人や愛人などと連れ立って
ひっそりと見に行くのがよろしいのではないかと思う。

いまや名所となったけれども、
見に行くならやはり、首都高速神奈川6号川崎線。
それも湾岸線から横羽線へ向かうのがいい。

ここからの夜の眺めを動画にアップしているのを見つけたので、ぜひ。

京浜工業地帯 (2:46)
http://www.youtube.com/watch?v=YH-o8C6ozAU&NR=1&feature=fvwp

すこし前、缶コーヒーBOSSのCMで使われて話題になった。
個人的には、ファイナルファンタジーⅦを思い出す風景でもある。

夜中から明け方にかけての時間帯はクルマはまったくと言っていいほど通らない。
この時間帯であれば、時速10キロくらいでゆっくりと見ることができる。

本当はいけないけれども、
路肩の避難地帯に停車して、クルマを降りて見るのもよいと思う。
自分も久しぶりに行ってみようと思っております。
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by hiziri_1984 | 2012-11-07 22:59 | 瀆書体験  

決定的瞬間


東急東横線の渋谷駅ホーム内に
嵐のアルバム発売告知巨大ポスターが
連貼りで掲載されている。

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女性たちがぞろぞろ湧いてくるように現れ、
これを撮影しては去っていく。

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それぞれ自分の好きなメンバーを思い思いの角度からパシャパシャ。
連れ合いで来ている人たちは終始ニコニコキャッキャッしていて、実に楽しげだ。

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よく見ると、嵐の面々はちゃんと“撮られ顔”になっていて、
ということは、ここに掲載する前提での企画ってことなのかな。
(自分の見たところ、ニノミヤ君が一番人気であった)

約30~40分の間、嵐ファンたちは絶えることがなく、
この人たちはこれを撮影するためだけに
駅に入場しているのだろうか。

自分がなぜそんなに長時間その様子を見ていたのか、
念のため申し上げておくと、
人身事故の影響で止まっていた東横線の運転再開を
ずっと待っていたからである。
彼女たちにしてみれば、都合がよく、
思う存分写真を撮るチャンスであったわけだ。

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「嵐って人気あるな。自分も生まれ変わったら嵐になりたい」
と思いながら、ボーっと眺めていた。

すると、
ひとりの女性A(20代OL・CLASSY、oggi風)がポスターを撮影中、
そのAの前をデジカメを持った女性B(30代OL・素朴な感じ)が通り過ぎようとしている。
次の瞬間、BはAの撮影の邪魔にならぬように腰をかがめ、
片手を拝むように前へ差し出し、その手刀を上下に動かしながら、
サササッと小走りでAの前を通り過ぎた。
サラリーマンがよくやるあれだ。(自分もよくやるが)
「さーせーん(すいません)」という声がこちらに聞こえてくるくらいの感じで。

可笑しかった。
ポスター前の空間が嵐ファンたちの空間として
グッと立ち上がってきた、という感じか。
Bさんのサラリーマン顔負けの立ち居振る舞い、
AさんとBさんの格好や印象のちがいもよかったのかもしれない。
その一瞬の光景をぜひ撮影したかった、と思った。

こういうのを写真アートの世界では、「決定的瞬間」というのだそうだ。
(もちろん自分の撮りたかった瞬間は芸術的でもなんでもないが)

 動作中の諸要素がみごとに釣り合う瞬間がある。
 写真はその瞬間を捉え、その均衡を不動のものにしなければならない。
         ―ラッセル・ミラー『マグナム』木下哲夫訳(白水社/1999)―

写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの作品を見て、
なるほどと思った。お見事!と言いたくなる一瞬をとらえている。
まるで演出された、嘘のような一枚だ。
(「サン=ラザール駅裏」と画像検索すれば出てきます)

写真は英語で「photograph」。
どこにも「真実を写す」という意味は含まれていない。
つまりは写真とはあくまで日本語訳における造語であり、
直訳するのであれば光画の方が意味は近い。

写真=真実を写す、ものではないというところから、
写真家ホンマタカシ氏の「写真」が始まる。

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『たのしい写真 よい子のための写真教室』 ホンマタカシ (平凡社)
(上記ラッセル・ミラーの引用も本書から)

写真は現実をとらえたものであると同時に、
いまやプロ・アマを問わずフォトショやマック、その他を使えば、
写真はどうとでも編集・加工が可能だ。
レタッチされて一切のシミ・シワが消えた女優やアイドルたちのなんと美しいこと!

ヴォルター・ベンヤミンの「(写真は)本物にたどり着かない芸術」という言葉を引用しつつ、

 もし仮に真実と嘘があったとしたら、写真はそのどちらにもなり得るもの、
 あるいはそのふたつの間を行ったり来たりするものです。
 《中略》
 自由に、多義的に、いかがわしく。だからこそ今日的。
 それが写真のたのしさだとボクは思うのです。

というホンマタカシ氏の文章には
おもしろがりの性質が底にあって
写真ってなんかもっと楽しめるのかもしれないと思わせてくれる。

写真家の話がなぜこんなにおもしろいのだろう。
それはおそらく、彼らが
街を、村を、自然を「歩いて」「立ち止まって」「見つめて」いる人たちだからで、
それはホンマタカシ氏の言葉でいえば“世界をどう捉えているか”ということ。

路上に繰り出す写真家たちは、街から街へ行ったり来たり、
嘘と真実の間を行ったり来たりして、
なにを感じているのか。考えようとしているのか。
彼らの眼差しや彼らが捉えているものを
街をぶらぶらしながら、真似してみたくなるのだ。

また、そこにはなにか、
たのしいことやおもしろいことは、
自分の内にある世界を追求したり表現するよりも、
外の世界にこそある(のかもしれない)というモチベーションがあるようにも思えて、
共感することも多く、また色々な写真が見たくなるのである。

写真は絵画的役割から飛び出して、
アンリ・カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」、
画面の被写体すべてを等価にする「ニューカラー」、
そしてさらに多様性をきわめる「ポストモダン」へ。

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技術の進化とともに変化してきた写真(芸術)の歴史を学べる講義、
映画をはじめあらゆる芸術とクロスする語り、
生態心理学者や小説家との対談、ワークショップによる実践。
自分はカメラを所有していないので、
“4×5では120ミリのレンズを使う”とか“125分の1秒”とか
技術的な話はよくわからないけれども、
写真の多様な楽しみ方が書かれていて、ワクワクする。
それは自分の場合、当てもなく歩く楽しみにもつながり得る。

本書から派生して、しばらく写真尽くしの読書。

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『天才アラーキー 写真ノ方法』 荒木経惟 (集英社新書)

本当だけど嘘、嘘だけど本当。
真実ってなに?女性?愛?S×X?死?
アラーキーの身体からしか出て来ないような肉感的文章。
読んだ後、保坂和志の「小説は小説を読んでいる時間の中にしかない」という
言葉を思い出したりして。とすれば、本書は新書の体裁ではあるけれども、
充分小説なのじゃないかつって、もう何度も読んでいる。


『この写真がすごい 100photograph 2008』 大竹昭子 (朝日出版社)

何がすごいのか、を丁寧に言葉にする。
すごく丁寧。それでいて簡潔。
イメージを左脳的に言葉に置き換えるのがお上手でいらっしゃる。
そして、写真に対する愛を感じる。
もし自分がカフェや喫茶店を経営するなら、ぜひ置きたい一冊。
「何かいい」とか「何か分かる」の「何か」って、
こんな風にアプローチしてみるとよいのかぁと思った。
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by hiziri_1984 | 2012-11-01 23:58 | 瀆書体験