カテゴリ:映画館で観る( 15 )

 

『ルート・アイリッシュ』

伊勢佐木町ジャック&ベティにて、
ケン・ローチ監督『ルート・アイリッシュ』を観た。
『エリックを探して』を観て以来の新作である。

なぜ友は、世界で最も危険な道で死ななければならなかったのか。
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戦争をビジネスに「効率化」と「利益の最大化」を推し進め儲ける企業と、
その社員として戦場で働いた男たち。
本作を観て初めて、戦闘員を派遣する民間企業が存在し、
派遣された戦闘員を中心として、戦争が行われていることを知った。
もはや彼らの存在なしに、戦争ビジネスは黒字にならないそうだ。
そして、派遣戦闘員は戦地となった国(イラク)の法で裁かれない
という取り決めが、事態をさらに混迷へと導く。

高額の給料が支払われる一方で、会社員たちは、
戦場で拷問し、撃ち、殺し、消えない記憶を抱えて帰国する。
事実、現在何万人もの元・派遣戦闘員が、日々カウンセリングへ通っている。
「純粋な頃の昔の自分に戻りたい」と吐露する元・会社員の男のけじめと末路。
ケン・ローチは今回も徹底して、社会の中で苦しむ庶民を映す。

いま、サッチャーの映画をやっているけれども、
サッチャー政権は「新自由主義」のもと、
一部の富裕層を潤し、市民から職を奪ったという見解があることを
忘れてはいかんだろう。
(サッチャーの映画を観たわけではないので、何とも言えないけれど)
ケン・ローチ監督は、鉄の女の涙ではなく、
その「英断」によって日々の困窮した暮らしに泣く市井の女の涙に
レンズを向け続ける。
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“話がおかしければ、金の流れを追え”
“正しさとは何かを問い続けること”

名作『ケス』以来、
目的を失わないジャーナリズムで撮るケン・ローチは、
真実を追求し続ける、本質からブレない社会派作家のひとりである。

[公式サイト] http://route-irish.jp/
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by hiziri_1984 | 2012-05-30 14:40 | 映画館で観る  

『ル・アーヴルの靴みがき』(後)

《ネタバレあります》

靴みがき仕事の合間、老人は海岸沿いで昼飯を食おうとする。
ふっと目の前の海に目をやると、
服を着たまま海に浸かった黒人の少年がいて、
不安そうな表情で「ロンドンはどっち?」と聴く。ここは笑った。

そうして、老人はひょんなことから出会った
アフリカ難民の少年を助ける。警察から少年をかくまいながら、
イギリスにいる母に会いに行くという少年に手を貸す。
しかし、「なぜ助けるのか」は、作中一切語られない。

例えば、これがアメリカ映画であれば、
いい年こいてそんな無茶は止せ、警察に捕まるから止せ、
といった周囲の反対を押し切ってまで、
ご政道の乱れを指摘し、自分の思う正義を貫いて少年を助ける老人!
というシーンを入れて、描くんじゃないかなぁと思いながら見ていた。

そういえば、クリント・イーストウッド監督『グラン・トリノ』では、
Mr.アメリカとも呼ぶべき頑固じじいが、在米東洋人の若者を守った。
古きよきアメリカを知る一人の男としての矜持や誇りを胸に秘めつつも、
ニュートラルかつ柔軟な考え方で若者と向き合い、
今の世の中で果たす自分の役割を見定め行動し、
老兵の生き様と死に様の輝きを見せた。

カウリスマキはそうはしない。
『ル・アーヴルの靴みがき』で、
老人はご近所の仲間と協力し、密航のための資金さえ捻出し、
イギリスにいる母に会いに行くという難民の少年を助ける。
なぜだろう。

その“なぜ”が、問われることはない。
多くを語らぬ、静かなる抵抗であり続ける。
なぜそうするのか。
わからない。

ただ、映画館を出たあと、その“なぜ”が不思議と腑に落ちている。
その理由はまだよく分からないけれども、
本作は、映画という非現実を描く作りものが、
現実に対してそのチカラを発揮しうる、
ギリギリの虚構で、ていねいに制作されているように思える。

本作は、黒人の少年のロンドン行きを実現した後、
妻が病気から奇跡的に回復するハッピーエンドで終幕する。
これは、善い行いをすれば、まわりまわって、
自分に善いことがあるということを意味する。
前向きにいまを見つめる視点で、締めくくられるんである。

エンドロールを見ながら、
本作のコピーは「映画史上、最高のハッピーエンド」とあるけれども、
あるいは、「史上最もギリギリのハッピーエンド」であるなぁと思った。
それは、映画は理想や夢を描く物語であるという側面と
新しい視点で現実を見つめる視点をもたらすという側面があると思ったから。

それから、“なぜ”がわざわざ語られないのは、
みんな口にはしないけれども、
いまヨーロッパ諸国で起きている難民問題とその対応策が
「よいわけねーだろう」という庶民に潜在する想いがあるからなのかな、
とも思った。
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自由と平等と博愛の国における、現実に対する静かな抵抗。
カウリスマキ監督作品は今回も、日常を照らす素晴らしい作品であった。

バーの青い目のおばあちゃんがとてもきれいな人であった。
(予告編で「(あなたの女房は)いい女だよ」と言っているおばあちゃん)
[予告編]http://www.youtube.com/watch?v=KkFYfD-2eAQ
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by hiziri_1984 | 2012-05-29 14:44 | 映画館で観る  

『ル・アーヴルの靴みがき』(前)

伊勢佐木町の奥、黄金町に程近い、単館系シアター・ジャック&ベティへ。
横浜ではすっかり数少なくなった
アンダーグラウンド、インディペンデント作品を上映する稀有な映画館。
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自分の高校時代から変わらない。
映画を好きな人が映画を上映する、素敵な映画館であり続けている。
平日昼間の上映だったので、空いてるだろうと思っていたら、
水曜のレディースデイということもあってか、
シニアの夫婦を中心になかなかの盛況っぷり。

アキ・カウリスマキ監督の新作、
『ル・アーヴルの靴みがき』を観た。
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今回の撮影は、本拠地・北欧フィンランドではなく、
タイトルにもあるフランスのル・アーブルでの撮影ではあるけれども、
お馴染みの世界観は健在。

夫が靴みがきの仕事を終えて帰宅する。
夫「帰ったよ」
妻「そうね」
そのやりとりで、気心の通じたふたりであることがじわっと伝わってくる。
この、「おかえり」でもなく「疲れたでしょ」でもなく、「儲かった?」でもない
「そうね」という返答がいい。
カウリスマキ監督は、会話によって、
ストーリーを立体的に組み立てるということを極力しない。
登場人物、特に主人公は、自分の意志や意見を声高に叫ぶこともないし、
いつも状況に引っ張られていく。
彼らは、黙々と、淡々と、行動する。
そこには、自分の身の回りの出来事の
全てを受け入れて生きていく強さがあるように感じられる。

カティ・オウティネン(妻役)の
寂しさ、諦め、温かさ、すべてが同居したような表情はいつも、
慎ましくも、強く、やさしく生きる市井の人々の美しさを表現している。
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by hiziri_1984 | 2012-05-24 23:56 | 映画館で観る  

慈愛の顔面 『青い塩』

桜木町の横浜ブルクへ『SHAME-シェイム-』を観に行ったのだけれども、
「あっ、こっちが気になる」つって、韓国映画『青い塩』に急遽変更。

なんでそっちを選んだのかって。
それは、ソン・ガンホが主演だからさ!

2時間ちょっとのこの作品を見続けられたのは、
ひとえに私がソン・ガンホが大好きだからだ。
なんといってもその顔。
語る、見つめる、泣く、メシを食う、酒を飲む、笑う。
この人の顔はほんとうに見応えがある。
画面を占める、その大きい顔面に注目してしまう。

ポスターの、シリアスでややアングラな雰囲気とは対照的に
その中身はというと、わりと王道的なラブストーリーである。(以下ネタバレあります)

ソン・ガンホ演じる伝説のやくざがその世界から足をあらい、
いまは料理教室に通っていて、
ゆくゆくは釜山でレストランをやって
のんびり暮らそうかな、と考えながら
海を眺めているところから映画は始まる。

伝説のやくざ、つまり昔は色々凄かったという過去がある。
その雰囲気を真実味をもって一手に引き受けられるのが、
ソン・ガンホの顔面である。顔面力である。いや顔面技か。
片目がすこしつぶれた表情によって、さらにその味わいが増す。

もちろん演技も。
他作で見られる彼のヤクザ役は、
実際に元・やくざなのではないかと思えるほど凄みがある。
(そうしたシリアスから一気にコミカルへ
もっていけるのも素晴らしいなぁと思う)

で、もどって『青い塩』。
この元・やくざが義理固く、強くて、器がでかい。
母の死を乗り越え、部下の裏切りにあい、
抗争の中で組を築きあげながら生き続けてきたゆえ、
人生のあらゆるものを経験してきたという感じで、
達観者的な風格を醸し出している。

それゆえ、沢尻エリカとほしのあきを足して2で割ったような
ヒロイン(シン・セギョン)を愛する眼差しも、
恋焦がれて想いを募らせるというより、
孫を可愛がる爺のような慈愛である。(実際にかなり歳の差がある)
オトコとしてのギラギラした感じはない。

ヒロインの彼女がスナイパーとしての仕事をまっとうして、
つまりソン・ガンホを殺して友人を救うか、それとも
ソン・ガンホを撃たずに逃がす(一緒に逃げる)か、という選択を迫られた場合、
どちらにせよ、ソン・ガンホ自身は彼女のために死ぬことを
辞さないだろうという覚悟をもっていることは多分に伝わってくる。
だから、撃つのか撃たないのかということに
大きな意味合いを感じないので、緊張感やスリリングさに欠ける。

2人でプリクラに行ったり、スマホでイチャイチャしたり、
観てるこっちが照れくさくなるくらい
ものすごーくベタなラブコメ的ノリになったりするが、
終始ソン・ガンホの包み込むようなやさしさがベースにあるから、
観てる方としてはドキドキしないのですね。

だから、この次の展開を観たいと思わせる推進力が弱い。
それはいわゆる「先が読める」「飽きやすい」ということになり、
自分は途中で「大体分かったし、(映画館を)出ようかな」と思った。
が、数人のお客の鑑賞に水を差すような気もして、
結局出なかったけれども。

ただ、「先が読める」「飽きやすい」ことがすなわち
つまらないかというとそうではなくて、
そもそも映画のつくり方や狙いがおそらくちがっていて、
この監督はワンカット・ワンシーンの光や風景描写の
美しさにこだわっていると思うし、
流れに起伏が少ない分、映像がエモーショナルだ。
2人の穏やかな恋愛風景、元・やくざの男っぷりが、
釜山やソウルの海、丘、エグゼクティブなマンション、塩田といった舞台に映える。
そういえば、モチーフの青といい、元・やくざという設定といい、
なんとなく北野武作品を彷彿とさせる。

恋愛というよりは愛、無償の愛の物語。
キャッチコピーも“その愛は、辛(から)くて切ない。”
『青い塩』だけに。
“その愛は、辛(から)くて切ない。”である。
(まじめなのか、ふざけたいのか、よくわからない変なコピーだ)

ソン・ガンホが体現していたのは、
愛とは与えること。であった。
それは、『タクシードライバー』にて
ロバート・デ・ニーロがジョディ・フォスターに注ぐ眼差しと似ていると思った。

話は変わって、中年やくざをメロメロにするツンデレガールのシン・セギョン。
彼女が、ソン・ガンホに借りたYシャツ一枚になるシーンがあった。
(たしかトランクスも履いていたかも)
『神様、もう少しだけ』の深田恭子かっつって。(古っ)
女子の、メンズYシャツ一枚姿って、韓国男子にもシズるのだね。
小柄な体格のアジア人女性ならではのかわいらしさ、か。
欧米人にもこの感覚はあるのだろうか。

つらつら書いていたらすっかり長くなってしまったけれども、
いや~、ソン・ガンホ、よかった。
韓国映画ムーブメントのさきがけ『シュリ』で
脇役だった頃から10年近く経ち、
今度こそ(?)愛するスナイパーに狙われる主役になり、
ガンガン画面に出てくれてうれしい。

映画館に来るのは、昨年末の『エンディング・ノート』以来。
個人的には、韓国映画に大きなハズレはない記録、更新である。
きちんと真面目につくっているよね。

監督・脚本:イ・ヒョンスン 『青い塩』 
http://www.aoi-shio.com/top.html
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by hiziri_1984 | 2012-03-21 01:06 | 映画館で観る  

『カイジ2 人生奪回ゲーム』

『カイジ2 人生奪回ゲーム』を観た。
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伊勢谷友介(一条役)が、すごい。
原作の一条を超えていると思う。
「負ければ地獄」という切迫感を
一番エンターテインメントしていた。

ちなみに、本作では一条も超高層ビル鉄骨綱渡りを
経験していたという過去が加えられて、
カイジとの因縁が強められている。
(カイジシリーズは全て読んでいるのだ)

それから、1作目は観ていないけれども、
途中『カイジ1』の映像がインサートされる。
その中で、
石田さん全身全霊の「これ、カイジ君にあげるよ」のシーンがあって、
感極まった。
石田役は光石研がやっている。

まとめて言えば、マンガの方がおもしろい。
と言ってはお仕舞かもしれないけれども。
(観る方としては、どうしたって原作と比べる)
“原作超え”は、原作をつくることより難しいし大変だろうと思うから、
ちがう“見方・楽しみ方”ができればいいなと思う。

『カイジ2』は、「伊勢谷友介、スゲー」。
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by hiziri_1984 | 2011-11-06 22:35 | 映画館で観る  

『さや侍』

松本人志監督『さや侍』を観た。
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殿様の子息を30日以内に笑わせなければ、切腹。

映画作品として(観客にとって)面白くなければならない。
しかし、1日目で殿の子を笑わせては、ストーリーは進まない。

面白く、でも面白くなく。でも、面白く。

その綱渡りに、
素人・野見勘十郎が精一杯チカラを尽くす。

面白い。
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おもろい、つまらない。
ウケる、ウケない。
スベる、スベらない。

芸人に課せられる
その二元論や枠組みにとらわれずに、
「おもしろいって何」「笑いって何」ということをやる。

それが、テレビではなく、
映画という手法を使ってつくる
松本監督の「笑い」なんだと思う。

ダウンタウンDXやアカン警察、すべらない話を見るように、
お茶の間感覚だけでこの作品を観ると、つまらない。と思った。
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by hiziri_1984 | 2011-06-19 23:51 | 映画館で観る  

『GANTZ PERFECT ANSWER』からの派生

映画『GANTZ』について書いた折、「GANTZ」の面白さの原動力は
「なんだかよくわからないけど、戦わされている。しかも、戦って勝たなければ死ぬ」
という不条理さにあると述べたけれども、その不条理さというのはすなわち、
実社会のことでもあると、いま、思った。
社会というか、世の中ってそもそも不条理ではないかと。

GANTZの玄野くん然り、そういえば、エヴァンゲリオンの碇しんじも然り、
「自ら拳をあげてたたかう」のではなく、
何者かの意図やその世界独自のルールによって、「たたかわされる」。
それは、まぁ、ものすごく端的に現実社会に即して言い換えれば、
「(社会のルールに則って)働かされている」ということであり、
多かれ少なかれそうした強制力を受けながら生きることは、不条理といえる。
(ここでいう社会とは、「働くこと」「仕事」にフォーカスしていう社会のこと)

GANTZのあの魅力的な世界観を“悪夢のようだ”という時、
私たちが生きている社会を“悪夢のようだ”というのと同義なのではないか。
(前者には“おもしろい”という意味が含まれているけどね)

玄野や碇は、「普通ではできないことを成し遂げるやつ」「人間の未来を担う存在」
であることを告げられると、「おれはそんなんじゃない」と拒絶する。
勇ましく立ち向かうこれまでのヒーロー(像)と、彼らは違う。
躊躇する、戸惑う、泣く、怯える。自意識も過剰気味だ。
それを隠さない(隠して描かない)。言うなれば“ヒーローではないヒーロー”だ。
なぜそんなやつが登場する作品に面白さや新しさを感じるのだろう。
それは、敵を倒した後、「平和」や「秩序」がある新しい世界が訪れるという既存のストーリーに、
もう共感できないからなのかもしれない。(もちろんそれだけではないだろうけど)

そうした時にどうなるか。
焦点は、おそらく、「外」にある世界ではなく、そんな世界に存在する自らの「内」側に向かう。
心とか、命そのものとか、といってもそれもすでに色々な作品で試行錯誤されていて、
次に向かう先は、いわゆる「心」優先の心体二元論的なものではなく、
身体性も含めた心の有様とか、か・・・

と、実社会に則して作品について思い考えることが、
必ずしも作品を面白く読むことには直接つながらないかもしれないが、
頭でっかちにならないようにしながら、こんな風に考えたり思ったりする。スルスル。
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by hiziri_1984 | 2011-06-02 15:16 | 映画館で観る  

『GANTZ PERFECT ANSWER』

佐藤信介監督『GANTZ PERFECT ANSWER』を観た。

1作目を観て、全然アカンかったけど、
2作目こそはと、少しは期待したが、
駄目であった。

タイトルに「PERFECT ANSWER」とあるし、
やはりここは、原作のコミックでもまだ判明していない、
「GANTZって何?」という謎への答え(佐藤監督の解釈)を期待して、
少なくとも原作読者の多くは映画館へ足を運んでいる、と思う。

結果、その謎は映画の中でも謎として、
ほぼ横すべりさせたまま、エンディングを迎えた。
がっかりした。(以下ネタバレします)

いや、まあ、一応は謎に対する答えはあった。
本作で、あの黒い球体は、「死」の恐怖・不条理の象徴として描かれた。
ラスト、玄野が黒い球体内部に入り、GANTZそのものとなることで、
愛する人のために死(の恐怖)を乗り越えるのだ。

しかし、玄野たちが戦う理由を「愛のため」や「平和のため」という
わかりやすいものにしてしまうと、
原作「GANTZ」がもつ面白さがほぼすべてと言っていいほど、損なわれてしまう。
なぜかというと、
「なんだかわからないけど、戦わされている。しかも、戦って勝たなければ死ぬ」という不条理さが、
「GANTZ」の面白さの原動力になっていると思うからだ。
GANTZに指令されて戦うことを
「愛する人のため」「みんなのため」というあまりに健康的な正義に変えてしまうと、
悪夢のようで不気味なGANTZの世界観が崩れ、原作読者の多くは共感できないと思うし、
裏切られたような気持ちになる。(原作のラストがどうなるかは、分からないけれども)
そもそも、GANTZが死であるならば、星人と戦っているここはどこなんだという、
疑問は置き去りのままであるし・・・。

VFXとか、映像としての凄さをやりたかったのか。
いやいや、これなら10年も前だけど『マトリックス』の方が全然凄いぞ。

結果、「なんで映画化したのだろう」と思った。
がっかりした。
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by hiziri_1984 | 2011-05-07 23:18 | 映画館で観る  

『まほろ駅前多田便利軒』


大森立嗣監督の『まほろ駅前多田便利軒』を観た。

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作中、「おせっかい」という言葉が出てくる。

よかれと思ってやったことが、結果として相手に不快を与えたり、
やりすぎたかなと思ったら、案外相手は喜んでくれたり。
人と人の距離感はつかみづらい。
どこまで人の気持ちや生活に踏み込んでよいものかという判断は、むずかしい。

多田(瑛太)が営む便利屋という職業は、
依頼主の知られざる部分に踏み込まざるを得ない仕事である。
じじいの妄想に付き合わされたり、夜逃げに出くわしたり、
絆を失いかけている親子関係を目の当たりにしたり、
仕事を通じて依頼主の光の当たらない(当ててほしくない)ところまで見えてしまうわけだ。

多田は、それら依頼主の私生活に
いちいち口を出すでも手を出すでもなく、
相手のテリトリーに踏み込むことなく、淡々と仕事をこなす。

しかし、そんな多田のスタンスは
同級生の行天(松田龍平)との再会によって、徐々に変わっていく。

この行天という男が、多田と共に仕事をしながら、
夜逃げした家族のもとへわざわざ犬を届けたり、
売春婦の家のドアを修理するついでに
その女をつけまわす男から身を守ってやったり、
ことごとく依頼主の私生活に介入する。
行天は、多田が守っていた境界線を軽々と踏み越えるのだ。
多田はそんな行天を口で否定しつつ、仕方なく手を貸す。

それにしても、30歳の男ふたりの再会というのは、おもしろい設定だ。
このふたりの間には、小学生時代に
“多田が押したせいで、行天あやうく指を切断する事故”という過去がある。
まさに指の皮一枚でつながっているような関係だ。

おそらく、卒業以降、顔を合わせていなかったふたり。
卒業からこれまでのお互いの人生を知らず、
またそこに踏み込もうとしないし、あまり踏み込んでほしくないとも思っている。
でも、まぁ、それなりに楽しく付き合える。
(こういう関係は、男特有の感じなのかもしれない)

ところが、思わぬところでふたりの過去が露になる。
アニメ 『フランダースの犬』の最終回についてふたりが語り合う場面。
あの有名な、ネロの「ぼく、もう眠いや」のシーンである。

行天は、自分のいちばん好きなもの(ルーベンスの絵)のもとで、
大切な者(パトラッシュ)とともに天に召されるのだから
「しあわせだ(ハッピーエンドだ)」と言う。
一方、多田は「子どもが死んで、なぜしあわせ(ハッピーエンド)なんだ」と言い返す。

かつて自分の親を殺そうとしたことがあるという過去を持つ行天は、
ネロに少年時代の自分自身を投影している。
多田はネロに幼くして亡くしてしまった我が子を投影している。
ここでやっと、30歳の男ふたりが抱える、それぞれの人生の暗部に光があたる。
(ここを回想シーンにするのではなく、いま現在の語りに過去が噴出するという描き方がいい)

過去の過ち・失敗を乗り越え、再生の道を模索するふたりが
再生の先に求めるものは、「しあわせ」な生活に他ならない。

それは、多田と行天だけではない。地元・まほろで生きる男たちも同じだ。
街のヒーローになりたかった刑事。
売春婦に熱を上げるチンピラ。
都市公団的ニュータウンで親の愛を知らぬまま育つ少年。
若くしてどこか虚無的な裏街のドン。
権力にどこまでも弱い小市民のおっさん。
わが子を背負いながら働く弁当屋の兄さん。
皆、同じである。

そんな中で「俺、もう30過ぎたし、このままずっとダメな感じで生きていくのかも」から
「それでもまあ、なんとかやっていくか」というところへ向かう
ふたりの心の経過が淡々と描かれる。

この作品が良いのは、
「それでもまあ、なんとかやっていくか」というところに至るまでを
ストーリーとしてでなく、一瞬一瞬の心の変化の積み重ねとして
丁寧に描かれていること、だと思う。

それは原作が小説であることにも因るかもしれない。
原作を読んだことはないけれども、監督が原作からインスパイアされたことを、
小説内のセリフや人物造型だけに頼らず、
映像として新たに表現しようと挑んでいると思った。

「しあわせって何?」みたいな、人生に関する問いについて
失敗と挫折を経て、男たちが再び模索する
そのプロセスがおもしろいからおもしろい。

多田と行天は喪失感を引きずり、再びつまずくことに怖れながらも、
面倒くさいけど他人の人生と関わりながら、さらに一歩踏み込みながら、
それぞれ今まで歩んできた道と地続きのしあわせに向かって進んでいく。

もちろん、具体的に「しあわせって何」に対する答えは出ない。
そのプロセスこそがこの映画のおもしろさであり、人生そのものなのだ、と思わせる。

“都会ではないけど田舎とも言えない”
“海から遠いが山間部でもない”
“部屋の隅にたまる埃”のように、ヒトが流れ着く街・まほろ。
そんな中途半端な街だからこそ、そこで生きていく男たちの苦悩と逞しさが際立つ。
「明日からできる、現代の男のかっこいい生き方」のようなものを感じた。

とてもいい映画体験でした。
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by hiziri_1984 | 2011-05-05 23:58 | 映画館で観る  

『英国王のスピーチ』

『英国王のスピーチ』を観る。

人前で話すというのは、これ難しいもので、
そのプレッシャーから、本番の日が近づくにつれ、
吐き気、めまい、睡眠不足、一時的な鬱などに襲われることもある。

で、この作品では、一国の王たる者がうまくスピーチできない。
ひどい時は、一言も発することができない。
大工が釘を打てないようなもので、
日本に置き換えていえば、天皇が吃りということであり、
それは、致命的だ。

印象的なのは、言語聴覚士・ライオネルが、
英国王・ジョージにクラシックのレコードをヘッドフォンで大音量で聴かせながら、
シェイクスピアの戯曲を朗読させる。
すると、ウソのようにスルスルと、一言一言に感情を込めて滑らかに話せてしまう、
というシークエンス。

つまり、自分の吃りを聞かないようにすることで、
英国王として立派なスピーチをしなければならない使命、
「俺はできる」というプライドから解放され、
自分の言葉として話すことができたわけだ。

ライオネルは、肉体的に問題があるのではなく、
精神に問題を抱えていると伝えるのだ。
(この考え方は当時の英国としては先進的だったみたいだ)

コンプレックスのほとんどは精神に“何か”を抱えて、発症する。

ふと、自分も大学生の頃、
赤面症、体臭コンプレックス(臭くないのに自分は臭いと思い込む・臭いに神経質になる)に
悩まされていたことを思い出した。
自分の場合は、「森田療法」という精神療法を見つけ、
本を読み、これを実践し、なんとか自力で解決するに至った。
ちなみに、「森田療法」とは、コンプレックスを「異物(普通じゃない)」とせず、
自分の一部として受け入れ、目的本位に生きる、というものだった。
今も不意にその精神症状は勃発する。(昔ほど取り乱したりはしないが)
つまり、コンプレックスと付き合って生きていく、
のが「森田療法」であると自分は解釈している。
まぁ、ぼちぼち加齢臭を気にしなければならない年齢だけれども。

あと、コンプレックスは、
幼少期に経験した心的ストレスが要因になっていることも多い。
(ドラマなどでは、こちらの方がよく使われる)
これは、ユング・フロイトの考えに基づく。
無意識下にある、コンプレックスの原因を意識化し、
克服のきっかけとしていくというものであった、気がする。

と、まぁ、思わぬ所で、自分の体験を顧みる機会ができた。

で、話を戻して、『英国王のスピーチ』。
王であり、また一人の男でもあることから
生まれる葛藤というのは、古今東西多くの作品のテーマとなっているが、
本作は実話をもとにした作品である。
いいよ。
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ジェフリー・ラッシュ(写真左)は、大楠道代に似ているな~と思って観ていた。
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by hiziri_1984 | 2011-04-17 23:37 | 映画館で観る