カテゴリ:瀆書体験( 25 )

 

ひとりになる時間


久しぶりにゆっくり本屋をまわり、
気になる本がいくつも見つかった。
そんな感覚も久々で新鮮で楽しかった。

気になった三冊。
忘れないように撮っておいた。

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ここ数年、お酒に費やしてきたお金と時間を、
そろそろまた読書に使いたいと思う。

ひとりになる時間がもっとあってよいかもしれない。
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by hiziri_1984 | 2015-05-10 22:24 | 瀆書体験  

EDIT-REAL


ゼロからイチを生み出す人というのはかっこいい。
いわゆるアーティストとかクリエーターと呼ぶにふさわしい人たちだ。

ちょっと昔(10年前くらい?)に比べると、
そんな人たちはグンと増えた。
増えたというか、今まで表に出にくかったものが、
見えるようになったという方が近いのかもしれない。

たとえば、私のごくごく身近なところでいえば
YouTube・ニコ動ではアイディア系おもしろ動画や
かっこよろしい音源が連日アップされるし、
ブログを見ればグッとくる写真やコラムが掲載されている。
SNSでもポンと膝を打つような投稿があったりもする。
同人誌のフェスなんかにも行った。

つくる楽しさが連鎖して
一億総クリエーターなんて日もそう遠くないのかもしれない。

そんな時代にあって、自分はどうしているかというと、
そうした次から次へと世に現れるモノ・コトや作品を
どうすればもっと愉しめるのかと考えたりしている。
創作と鑑賞、その鑑賞の方に注力している。
体験することとその愉しみ方を、もっともっと深められないだろうか。

それを考えるに当たって、とても示唆に富む一冊があった。
(いつか読もうと思って書棚にしまいっぱなしだった一冊)

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『千夜千冊』などで知られる
松岡正剛氏の『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』(講談社現代新書)。

メソッド・啓発本の類は好きではないけれども、
氏の書評を読んで関心が湧いたので
どういう風に読書をしているのか気になり、数冊手に取った。


   あれこれの情報が「われわれにとって必要な情報」になることを、
   ふつうは「知」といいます。情報をそのような「知」にしていくことが編集なのです。


という前書きから始まる本書は、あらゆるものを編集という視点で考えていく。
ここでいう情報とは、
TVやネット、新聞などから享受するニュースだけではなく、
生活、対人関係、芸術などあらゆる外からやってくるものを意味する。

映画、音楽、小説、哲学、新聞、日常会話、子どもの遊びなどなど
多岐にわたる分野のそこにある編集の仕組みを顕在化させ、
ひもときながら、彼独自のそれでいて普遍的な新しい編集術をつくる。

真面目不真面目、ウソとホント、関係無関係、大小、濃淡
さまざまな情報がうっとおしいほどひっきりなしに入ってくるいま、
エディトリアルのもつ機能性と可能性にワクワクした。

編集というとなにかをまとめたりするというイメージがあるけれども、
本書で語られる編集はどうやらちがう。


   編集術は整理術ではない。情報を創発するための技術なのである。
   創発とは、その場面におよぶと巧まずして出てくるクリエイティビティのようなもの
   をいう。あらかじめ準備しておく編集も大事だが、その場に臨んでますます発揮
   できる編集力、それがいちばん重視する創発的な技術というものだ。


遊び、連想、再構築、発見、それから表現。
稀代の読書家である松岡正剛が提唱する「編集」には
おそらく死ぬまで情報を浴びつづけて生きる中で、
たくましく、おもしろく、それらを愉しむヒントと方法が
ていねいに具体的に書かれている。

ちなみに、『多読術』(ちくまプリマー新書)という著書では、
読書において彼の編集術が発揮されており、
本を読む愉しさの多様性がとてもラディカルに書かれていて、こちらも良書。

多くの人が創作表現活動を愉しめる時代。
プロとアマの境界線が曖昧になってきているし、その基準は揺らいできている。
「なにがおもしろいのか」「なにを優れていると感じるか」を自分の感覚をひらいて、
積極的におもしろがるために「編集」はキーになると思った。

いわば、創作はゼロからイチにする。
編集はイチ+イチをサンにする。
雑誌や本の編集者はもちろん、
映画監督、オーケストラの指揮者、DJも編集者だ。
工夫や方法次第で、
世にあまたあるモノ・コトを鑑賞・体験し、
それを素材にして充分に愉しむことができる。

自分がなにか生み出さなくてもいい、というくらいの清々しいスタンス。
前向きなひらきなおり。
まずはそんな気分で、音楽を聴き、映画を観て、本を読みたくなる。
誰かと話したくなる。

その先、またつくる愉しさへ進む気もするし
そうで無いような気もするけれども、
まぁそれは横に置いといて、
まずいまなにかしようと思い立つ開放感にあふれる。
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by hiziri_1984 | 2013-05-31 12:35 | 瀆書体験  

処女作にすべてあるか

処女作にはその作家のすべてがある、
なんてことがよく言われる。

最近読んだ、保坂和志・小島信夫の『小説修業』(中公文庫)に、

   何十年か続く小説家人生を通じてどういうことを書いていきたいかという、
   漠然としているように見えて本当のところ確固としたイメージを
   デビュー前から持っているような人でなければ小説家にはなれない。
   デビューというのはそういう意志が社会と交わる瞬間みたいなものにすぎなくて、
   つまり、すべての小説家はデビューする前から
   小説家としてのキャリアが始まっている。

という一節があった。

たしかに、時と場を越えて読み継がれている小説家ほど
しつこくしつこくひとつのテーマについて書き続けている。

そのテーマは例えば「人情」であったり「愛と裏切り」であったり、色々ある。
ひとつのテーマを追い続けて、その先にまた新しいテーマが湧き出てきて、
スタート地点からは思いもしなかったところにいたって、
「ずいぶん辺境まで来たな」と感じる小説ほどおもしろい。

すこし話がズレたので元に戻って、
“処女作にはその作家のすべてがある”である。

大学時代から読み続けているドストエフスキーについて、
どうも“処女作には~”が当てはまらないような気がするのだ。

彼の処女作『貧しき人びと』。
どんなストーリーであったか。
手元にある新潮文庫の裏表紙にはこう書かれている。

   世間から侮蔑の目で見られている
   小心で善良な小役人マカール・ジェーヴシキンを
   薄幸の乙女ワーレンカの不幸な恋の物語。

ドストエフスキーの諸作に漂う
印象だけで言えば、暗くなんとなく救われないような雰囲気は
たしかにある。
しかし、大学時代に読んだとき、
『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』などに比べると
どうも「人間の神秘を解き明かす」という人間の本質に迫る
ドストエフスキーの迫力に欠けて、おもしろく感じなかった。
実際、『貧しき人びと』に関する批評文や論文は少ない。

それというのも理由があって、
ドストエフスキーはこの『貧しき人びと』でデビュー後、
危険思想犯として逮捕され、極寒のシベリア監獄に流刑されてしまう。
そして、その獄中での体験が彼のその後の作家人生に多大な影響を及ぼし、
また執筆に駆り立てるテーマを与えるのである、
とされているからである。
(獄内の体験については『死の家の記録』を読まれたし)

つまり、一般的にドストエフスキーの小説家としての本格的なスタートは
出獄後に発表された『地下室の手記』ととらえられる。

事実、『貧しき人びと』にはドストエフスキー作品の重要なテーマのひとつである
「神」や「良心」についてほとんど書かれていない。
書かれていないというのはウソか。薄いと言った方がよいかもしれない。

そんな訳で、自分は『貧しき人びと』を軽視していたのだけれども、
本棚にしまいっぱなしにして約10年、久しぶりになんとなく手にとって読んだ。

おもしろかった。

ちなみに新潮文庫の裏表紙の紹介には続きがある。

   都会の吹きだまりに住む人々の孤独と屈辱を訴え、
   彼らの人間的自負と社会的葛藤を描いて
   「写実的ヒューマニズム」の傑作と絶賛され、
   文豪の名を一時に高めた作品である。

「写実的ヒューマニズム」というのがよく分からない。
辞書を引いて直訳してみる。

【写実的ヒューマニズム】
実際のありのままにうつしだすように描かれた、
人類の平等をみとめ、人類全体の平和の実現を最高目的とする主義

なんだか、余計分からなくなった。
そんなことが、この小説に書いてあったけか。

小説の解説に「薄幸の乙女ワーレンカ」とあるが、
彼女を「薄幸」とのみとらえるのも違う気がする。
薄幸かもしれないが、それゆえに「したたか」ではなかったか。

という感じで、ま、おもしろかったので、
もう一度『貧しき人びと』をちょっとずつ読んでいこうと思う。

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by hiziri_1984 | 2013-05-21 23:23 | 瀆書体験  

想ー像ーラジオー


いとうせいこうの小説、『想像ラジオ』を読んだ。

想像力が電波となり、
不特定多数の誰かに発信され受信されるふしぎなラジオ。
リスナーはこの世にいない人々へも届いているようだ。
想念のちからが、時と場所を越えて、生と死を曖昧にする、とでも言おうか。

番組のDJは、大津波によって樹上に吊り下げられてしまったひとりの男。
彼の独り言、あるいは脳内に湧き出す言葉が伝播していく。

このラジオ番組を発信・受信する人々は皆、
きっと3月11日の出来事によって生活を揺り動かされた人であって、
あの日以降あらためて、読者のひとりとしてそうイメージせざるを得ないのだなぁと思う。

読んだのが1ヶ月前。
ところどころうろ覚えだけれども、
ひとりのリスナーの女性からDJに届けられた投稿が妙に印象的だ。

その投稿の内容というのは、
地方の町に生まれ住む私(ひとりの女性)が、
朝起きて工場の経理的な仕事に出勤し、
PCでゲームをやりつつ働き、
帰ってきてメシを食ってケータイのゲームをやって眠る。
大体そんな話。

この投稿には、
非常事態にみまわれて初めて
ありふれた日常のかけがえなさに気づく的なものだけではない
何かがあるように思った。

最近読んだ別の本、中原昌也『死んでも何も残さない』(新潮社)にこんな一節があった。

   
   因果応報の物語を作っているのは神様ではなく自分自身だ。
   しかし、どうすればこの嫌な循環から解放されるのか。
   文章を書いたり、物語を作ったりすることは、
   本当は意味もなくランダムに存在しているものを、
   必然性があってそのように散らばっている、と証明しようとする仕事だから嫌なのだ。


   僕だって妄想を抱えているけれど、物語というのはすべて陰謀史観でしょう。
   陰謀史観というか、関係妄想。僕はそれに悩まされ続けてきたわけだし、 
   妄想を否定する唯一の手段は、小説を書かないこと。
   つまり、現実を物語として構築しないこと。


これらの一節は、女性の投稿はもちろん、
いとうせいこう著『想像ラジオ』をより愉しく読む上で、
よきヒントになるんじゃないかと思った。

思えば、テレビで放送されるワイドショーやニュースではいまだに、
殺人犯の過去や日常をさぐり、殺人に至るストーリーをつむごうと必死で
見る人もまたそこになんらかの因果や物語を見つけないと
納得できなくなっているような気がする。
自分もそうなりがちだ。

世の中にまるでバラバラに点在する一人ひとりの思いや出来事。
女性の投稿をはじめ、『想像ラジオ』に出てくるDJの思い出や他のリスナーの投稿。
それらをまとめて、
「それでも僕らはひとりじゃない」とか「みんなつながっている」というところに
着地することなく、わかりやすい物語に回収されずに、小説が続きそして終わる。

そこにこの作品の面白さのひとつがあるんじゃなかろうか。そう思った。
それが顕著に感じられたのが自分の場合、あの女性の投稿だったのかもしれない。

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by hiziri_1984 | 2013-03-20 14:55 | 瀆書体験  

江戸前啖呵の炸裂


言わずと知れた、“親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている”である。

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『坊っちゃん』 夏目漱石 (新潮文庫)

この年になって初めて読んだ。
こんなにおもしろいとは知らなかった。

主人公の快傑江戸っ子男子・坊っちゃんが
生まれ育った東京を離れ、四国の中学教師に赴任するところから
小説がグッと勢いづく。

なんといっても、坊っちゃんの江戸前啖呵の炸裂っぷりがいい。笑える。
それがさらに「~だな、もし」なんて言うおっとりのんびりした
四国言葉との対比によって、歯切れのよさが際立っている。

途中、焼いても煮ても食えない慇懃美術教師・野だいこを指して、
坊っちゃんはこんなことを思う。


  野だは大きらいだ。こんなやつは沢庵石をつけて海の底に沈めちまう方が日本のためだ。


単純明快、読んでスカッとする。
私的な感情であっても、威勢のよさで一般的・客観的な見解などは吹き飛ばす。
こういう語り方は、落語、こと東京の落語でよく聴く。

また、野だいこ(「太鼓もち」を由来とした揶揄)というあだ名を
坊っちゃん自らがつけたにもかかわらず、
いつのまにか「野だいこ」から「野だ」になっている。
あだ名が一周して普通の苗字(野田)になっているのも、おもしろい。
「この際いちいち呼ぶのも面倒だ。あだ名も略しちまおう」
なんていう説明くさい一文のかけらもないのもいい。

小説後半、東京では体験したことのなかった、
狭い田舎街ならではの閉鎖的な雰囲気や
じめじめとした人間関係、そこに根づく奸計や嫌がらせに参りながらも、
坊っちゃんは宿敵・赤シャツと野だに復讐を敢行する。

この、小説の山場ともいえるシーン。
自分は緊迫するどころか、読んで脱力した。
それというのも、
復讐の際、坊ちゃんは後で食おうと思っていた生玉子を野だの顔面に投げつけるのだ。

これはやっぱり洒落だろう、と。
「いい気味(黄身)だ」っていう。
100年前の作品のオチをいまあーだこーだ言っても仕方ない。
ただ、一貫した作品における調子というか馬鹿馬鹿しさには感服した。

ネタバレで言ってしまうと、この復讐が本作のいわばクライマックスである。
知恵はないが、腕に自身のある坊ちゃんは玉子を投げつけ、
ここぞとばかりに野だを殴りまくる。
山嵐は自分を辞職へと追い込んだ赤シャツを殴りまくる。

作中、敵役ふたりのねちねちとした嫌がらせが幾度となく繰り返される。
だから、もはやこのシーンまでたどり着くと、
暴力はいけないとかいうモラル・道徳を越えた清清しさや気持ちよさがある。

「殴っちまえ、そんなやつ」が成立する。

そういった意味で、この作品が名作と言われる由縁がなんとなくわかった。
普通一般でダメだろうとされていることがOKになり(肯定されていて)、
それが江戸前の笑いと織り交ざって、おもしろいことになっていると思った。
「300円だから」という安易な理由で読んで、思わぬおもしろさであった。

そういえば、本文とは関係ないけど、
読み終えたあと、ふっと頭に湧いた歌があったのでご紹介します。

■『マシマロ』 奥田民生
http://www.youtube.com/watch?v=vx61fYz-8WI
歌われている人間像のニュアンスがちょっと似てる、のでしょうか。
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by hiziri_1984 | 2013-02-22 23:53 | 瀆書体験  

29歳の男


のんびり読めるのがいいなーと思って、
なんとなく書棚から手にとった。

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奥田民生 『FISH OR DIE』 角川文庫

ユニコーン解散後、しばらく休んでいた頃からインタビューは始める。
とにかく最初は、「休みたかった」「釣りばっかりしてた」言ってばっかりである。
素敵な大人っぷりだ。

インタビューの後には、ソロ1枚目『29』の楽曲解説がある。
そう、この頃の奥田民生は29歳。
くしくも、先日自分も29歳になった。
こういう読書の縁というのはけっこうある。
それにしても29歳というのは「休みたくなる」お年頃なのだろうか。

本書の発売は1999年。
買った当時はたしか中学生。
当時、29歳なんてはるか先のことだと思っていたら、
いつのまにかその年に辿りついている。
あれ以来で読むわけだから、14年前。早いもんだ。
よくぞ手放さなかった。

こうなったら『29』を聴こうと思ったけど、
部屋整理のため、CDはあらかた売ってしまってもはやない。
こういう時に棚からCDを奥からひっぱりだして聴くというのがいいんだなと思った。
とっておけばよかった。手放してはいけなかった。

インタビューの合間に対談が入る。
最初は井上陽水。それから、桜井和寿、矢野顕子、広瀬香美、PUFFY。

ユニコーンの解散、釣り、バンド、ライブ、PUFFYのプロデュースなどの話が続く。

巷にあふれるラブソングや頑張れソングへの反抗心をあらわにしつつ話す、
音楽と詞の作り方がおもしろい。
それでいてとらえどころがない。でも、そこに惹かれる。


   (『イージュー☆ライダー』は)歌ってる相手も、
   同世代に対するメッセージというよりも、自分にという希望ですよね、希望。
   こういうふうなことを言っていられれば楽かなっていうような、自分に対するものなので。
   みんなこういうふうに生きようじゃないかというのとは、ちょっと違うんですよね。
   ぼくはこうしたいんだということで。

   
   え!?『さすらい』聴いて会社やめちゃった人がいるの?しまった!!
   そこでさすらおうと思っちゃいけないんだ(笑)。
   さすらおうって言われたからさすらっちゃ、人間としていけねぇだろ。
   自分はないのか、みたいなですね(笑)。
   だって「さすらお~ぅ~」の「お~ぅ~」がダサくていいなと思って作ったのに。


PUFFYのプロデュースの話なんかは、
中学生当時あまり面白く感じなかったけれども、
いま読むと、アラサーにして勉強とか練習とか言っているのが印象的だった。

名盤『股旅』がそろそろつくられる頃なのかなっていうくらいで、
インタビューは締めくくられる。
あれから14年。ミュージシャン・奥田民生は現役バリバリだ。
久々に近作を聴いてみよう。

その前にまずPUFFYの初期を聴こう。
http://www.youtube.com/watch?v=XRVShbxb87Q
いいなぁ。
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by hiziri_1984 | 2013-02-20 23:58 | 瀆書体験  

東京迷子


よく人に道を聞かれる。

自分の顔は道に詳しそうな顔立ちなのか、
それとも歩く姿に地元の人感が漂っているのか、
理由はわからないけれども、本当によく聞かれる。

一度、銀座のど真ん中でひとりのマダムに
なんとかという名のジュエリーショップの場所を尋ねられたことがあって、
何よりまず、よりによってそれを僕に訊きますか、と思った。
自分はといえばアクセサリーはおろか腕時計さえしたこともなく、
貧乏学生・貧乏フリーターのようなうだつの上がらぬ風貌である。
「すいませんわかりません」と言った後、
尋ねる前にまずこの人なら知っているだろうと見当をつけてから訊いた方が、
きっと目的地へ早く着けますよ、そうマダムに一言申し上げたかった。

外国の方にも、よく尋ねられる。
向こうからやってきていきなり「Hey!」である。
その黒人の彼が「ヨヨギコエン」に行きたいことは分かった。
ただ道のりは知っているけれども、いかんせん英語で説明できず、
結局「I don't know , sorry. 」と言わざるを得なかった、渋谷の午後。
せっかく親に大学まで出させてもらったにもかかわらず、
この体たらくであるから情けない。

そういえば大学生とおぼしき女の子に道順を説明している最中、
「あっ、すいません、“ハスムカイ”ってなんですか」って言われたことがあったっけ。
渋谷は苦手である。

よしんば相手が日本人で、尋ねられた道のりを知っている場合でも、
あの交差点がここから何本目だったか、あの角にあったのは何のお店だったか、
むしろ今説明しているルートじゃない方が近くてわかりやすいかなどと考えるうち、
自分も頭の中で迷ったりして、
説明がしどろもどろになるにつれ、
尋ねた相手の顔が「あーハズレを引いちゃったよ」みたいになっていくことがあり、
すると目的地はおろか相手との距離感までもすーっと遠のき、
空しさがじわーっと胸に広がって、頭の中の地図がかすんでいく。

そう、最初から地図を描けばいいのである。
なぜその時その場でそれをしてあげられないのだろう。
いちばん分かりやすいではないか。
ケータイで地図を見るなんて手もあるのに。
なぜあんなにもアナログになってしまうのか。不思議だ。
そもそも尋ねた人もケータイで探せばよいではないか、と思わないでもないけれども。

百聞は一見にしかず。
図やイラストというものが世の中でどれだけ活躍しているかしれない。

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『図で伝えるデザイン』 パイ インターナショナル

商品カタログ、サービスの説明書、観光案内、建物のフロア図、地図などなど
生活や商品などにまつわる色々なモノ・コトを
わかりやすく、魅力的に表現した図やイラストを網羅した図鑑的一冊。

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主にデザイナーさんの参考書として使われる類の書籍だけれども、
近頃ブームらしい“大人も楽しめる図鑑”のひとつでもあって、
多彩な表現方法の図説はパラパラめくるだけでも楽しめる。

自分は本書を精読し、次また道を尋ねられた際には、
目的地までの道順をスムーズに説き、
さらには道中のおいしいお店情報なども織り交ぜつつ、
愉快に道案内できるよう精進する次第。

本書制作のお手伝いをさせて頂いたこともあってご紹介。
(下手くそな広告みたいなブログ記事になってしまったけれども)

注・ご購入いただくと私の懐に印税が入るわけではございませんので、
  ご興味がありましたら、どうぞきもちよーくお買い求めくださいませ。
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by hiziri_1984 | 2013-02-19 21:34 | 瀆書体験  

なんとなくニッチな方へニッチな方へ


昨年末頃からベースの練習をしている。
縁あって友人のバンドに加わった。
アコギやドラムをほんのすこしばかり齧ったことがある自分は、
正直、ベースは基本的に弦一本を爪弾く楽器なので、
そう難しくはないだろうと思っていた。

でも、それはまちがいだった。

まず、太い弦を一定のリズムと強さで弾くのが難しい。
また、これに紐をつけて、肩に担いで演奏するのだけれども、
これがなかなかにキツい。
ベースは重いほど音がいい楽器なのだそうだ。

初めて1ヵ月ほど。
自分が弾くようになると、他の人のベースを聴くようになる。
さして興味のなかったカテゴリーの音楽なんかも聴くようになった。

プロフェッショナルの演奏・楽曲を拝聴するのは勿論、
知名度が低かったりする在野のバンドでも、
「ベースはどんな風に弾いているのか」と思って
どんどん聴けたりして、なかなかたのしい。

また、それは文章にも同じことが言えて、
最近フリーペーパーや同人誌などで、
「どんな企画でどんな文章を書いているか」が気になって
よく読むようになった。

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制作の仕事を辞めてから、ふしぎとこういうモノに手が伸びるようになった。天邪鬼だ。

お店で売っているもの、世の中に広く流通しているもの以外にも
巷には意外とすごい演奏があったり、
おもしろいことを書いている人がいて、
それらを見つけるのは楽しいし、なんだかうれしい。

なんだ、アンダーグラウンド志向か、
と思われるかもしれないけれども、
いや自分としてはそうばかりでもなくて、
儲からなくても続けているってところに、
マーケティングされていないからこそ出てくるモノみたいな。
知らなかったおもしろさと出会える可能性大に思えてそうしている。

Youtubeでもsoundcloudでも、
フリーペーパーでも同人誌でもブログでも、
その人の社会化されていない部分が表現されていたりするとおもしろい。

普通、マスコミなどで広告・宣伝されて、お店に並ぶ作品というのは、
多かれ少なかれ、よかれわるかれ、幾多の検閲があったということで、
その検閲というのが作品のクオリティを保持・管理するひとつの要になっているわけだけれども、
実はクリエイティブの狙いとは関係のない要素が入り込んでいたり、
ロクでもないやつ行っている場合が多いようにも思え、
何か信用できないなという気分もあって、
それだから、作った人が近い表現媒体に興味が向くのかもしれない。

とはいえ、広く大きい媒体で、
世の中に驚きを与えるすごいクリエーターやアーティスト、
その作品はたくさん存在するけれども。

まだ自分が知らない方、未体験な方へ行きたくなる。
アタリハズレが大きいのはご愛嬌として。
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by hiziri_1984 | 2013-01-25 01:56 | 瀆書体験  

透明になる写真家 -川島小鳥『未来ちゃん』-


前回の記事で書いた、川島小鳥写真集『未来ちゃん』(ナナロク社)。

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決定的な一瞬を狙って「ここだ!」とシャッターを切る。
佐渡で暮らす3歳の女の子「未来ちゃん」の無邪気な姿を
絶好のタイミングで切りとっている。

ふと思った。

この写真集の面白さは、
キュートな未来ちゃんだけではないような気がする。
「かわいいなぁ」と微笑みつつ、
本を閉じて、書棚に戻すだけでは、何だかもったいない。
でも、それはなんだ。

前回のブログ記事で、
「この写真集のおもしろさは、ふしぎな距離感だと思う」と書いたけれども、
そうだとして、じゃあそのふしぎな距離感とは一体なんだろう。

   (川島小鳥は)自由に走り回る彼女の傍らに、
   いつもカメラを一つぶら下げてすっと控えていて、
   淡々とシャッターを切っていく。
 
   「大袈裟な言い方だけど、無になろうとしているのかな……」

   川島小鳥インタビュー《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」 ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

なるほど。「無になろうとしている」か。

何かに夢中になったり、没頭していると、
「えっ、こんなにいっぱいのことを思ったり考えたりしていたはずなのに
 まだ5分しか経ってないのか」とか、
「好きなことやってると時間が経つのが早いなぁ」とか、
時間の感覚が飛ぶようなあの感じ。
「無になる」というのは、たとえばそんなことだろうか。

そういった意味でいうと、
まさに、無の境地であそび続けている人こそ「未来ちゃん」だ。
カメラという“わざとらしさ”を含む視線がすぐそばにあることなんて意に介さず、
自由にあそぶひとりの女の子。
その無邪気な姿をありのまま撮ろうとして、自らの存在を消していく写真家。

気のむくままに無心になって全力でいまを楽しむ「未来ちゃん」と、
自分の存在を空気のように無にしてそっとカメラを構える川島小鳥。
ふたりの“無になる時間”が、この写真集の一枚一枚におさめられているようにも思える。

この写真集を見ていると、
「未来ちゃん」のように、あるいは川島小鳥のように、
読者である自分もまた段々と無になっているのかもしれない。

ページをめくっていくうちに
急にカメラ目線の「未来ちゃん」と
目が合うとドキッとする。

そしてまたページをめくると、
「未来ちゃん」はカメラなんでそっちのけで、
あそびに熱中している。

ツンデレなのか。

目が合ったり、あっちへ行ったり、
たったひとりの女の子に翻弄され、
自分という存在が揺さぶられる。

家族が子を撮るような安心の距離だけでもなく、
傍観者が誰かを撮るようなさびしい距離でもない。
お互いが無になる不安を生むふしぎな距離関係。

「未来ちゃん」とは、この子の本名ではないらしい。
川島小鳥氏が「未来ちゃん」と名づけたその真意は知れないけれども、
未来とはつまりこれからのこと。
明るい未来に向かって生きていくこと。
そして、いつか消えてなくなるということ。

夢中になって無心になってあそぶ女の子と、
その姿とその瞬間を切り取るために
シャッターを押すたびに自分の存在を消して
無になっていく写真家。
無に満たされるふたり。しかし、たしかに存在しあうふたり。

不思議な距離感とは、
ふたりだけの儚(はかな)い距離なのかもしれない。

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存在を消し透明になることで、被写体の“わざとらしさ”も消えていく。



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by hiziri_1984 | 2012-11-20 00:32 | 瀆書体験  

なにを見てるの、あなたはどうなの


すこし前のこと、
今年の6月に生まれた友人の子を抱いた。
女の子だ。

かわいい。ただただ、かわいい。

胸に抱くと、かすかにふわっと、澄んだうすいミルクのような匂いがする。
こわれものを抱いてるようで、力加減をどうしたらいいのか分からない。
なにかを探すように予測不能に動く手がおもしろい。

抱きながら、おれにもこんな頃があったのかとか、
このまま無事に育てよとか、なんとかして今笑わせたいとか思う。

目が合う。黒目がくっきりとしている。
この子の目におれはどう映っているのか。
男であること、28歳であること、
横浜に生まれ育ち色々あって今ぶらぶらしていること。
そんなことは一切分からず、認識もしていないであろう大きな瞳。
この子の前では、ただの“なんかニヤニヤした肌色のやつ”くらいなものか。

自分がそうであるように、この子もまた
ものごころついた頃にはもう
赤子の頃に誰かに抱かれたことなんてきっと覚えていないんだろう。
そう思ってちょっとはかない気分になって見つめ返すと、
キョロッと視線を別の方へ向けたりして、はがゆい。
そして、愛らしい。

またこっちを見る。
“あなたはなに?”
と問いかけてくるようなまなざし。

そんな瞳には以前、会ったことがある。

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川島小鳥写真集 『未来ちゃん』 ナナロク社

かなり話題になった作品なので、
ご存知の方も多いと思われる。

「未来ちゃん」の黒目がちなビー玉のような瞳は
「あなたはなに?」とか「あなたはどう?」とか問うてくる。

「未来ちゃん」を見ているつもりが、
まるで鏡を見ているように
自分自身を見つめさせる。
大仰に言えば、なんだか存在を揺さぶられる。

一瞬一瞬を爆発させるように全力であそび、
いまのど真ん中を生きている「未来ちゃん」は
溌剌として、ほほえましい。
見ていると、ピュアな心が発動してくる。

子どもを見ると妙に老け込んでしまうのはよろしくないと思うけれども、
28年生きてきたことが、なんだかズシッとくる。

男子ではこうはいかない。
それはおれが男子であるからに他ならない。
男の子は馬鹿で、ただそれゆえの抜けのいい気持ちよさのようなものがある。
年齢こそちがうが、同種の生き物である感じがする。

女の子はちがう。
彼女たちは、なんというか、つよい。
ジッと黙って立っていたりすると、
なんだか意味深で、よく分からない存在になる。
でも、妙に真に迫ってくるものがあったりして悩ましい。

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《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」  ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

手元にあった雑誌BRUTUSの写真特集によると、
『未来ちゃん』に寄せる写真家・川島小鳥氏の写真術とは、
「作り込まない」ことなのだそうだ。

   写真を撮るという行為自体、
   ある“わざとらしさ”を含んでいますよね。
   だから“こっちを向いてほしい”とか、
   “こう動いてほしい”とかいう僕の意図が出ない方がいい。
           《「BRUTUS 特別編集 合本・写真術」  ㈱マガジンハウス 2011年10月30日発行》

なるほど。そういえば、『未来ちゃん』には、
子どもっぽい媚びが一切と言っていいほどない。

すごいと思うのは、
カットの多くがカメラ目線でないことで、
なんというか、ありのままなのだ。

   そもそも彼女は全精力を上げて自分の人生に集中している
                          《引用元 同上》

らしい。その通りだと思うし、
また川島氏が一年間、彼女と家族同然に寝起きを共にした成果であると思う。
そして何より、カメラを向けても一向におかまいなしの「未来ちゃん」に
被写体としてすごく惚れ込んでいるのがわかる。

川島氏が撮影のルールとして掲げていた「作り込まない」とは、
言い換えれば、つまり「作っている」ということだ。
考えてみればそれもそうだ。
あらかじめ撮影を想定したロケハンもしているだろうし、
カメラを持ってその瞬間を待ちつつ、多少声もかけているはずだ。

でも驚くほど、ドキュメンタリーチックだ。
だから、「なに撮ってんの」とか
「いま、撮った方がいいんじゃない」とか言う声が聞こえてきそうな
カメラ目線のカットがたまに出てくると、ドキッとする。

親が子の成長を見守るように撮影するのとはちがう。
家族でもなく、あかの他人でもなく。
ふしぎな距離感が面白味になっていて、
写真家としての企みがなんだかすごく成功していると思う。

この人は、次はなにを撮るのだろう。
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by hiziri_1984 | 2012-11-19 01:43 | 瀆書体験