いま、読まなきゃいけないと思った。もう遅いかもしれなくても。

ドストエフスキー『罪と罰』 新潮文庫。
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支配する人間と支配される人間。

それは勝ち組と負け組といった
即物的な豊かさの優劣などではなく、
生きるか生かされるか。
『罪と罰』は、人間の生死の問題ともいえるような
本当の意味での人間の自由の獲得を
問うために書かれた文学作品ではなかったか。

計画による必然といくつかの偶然によって、
高利貸しの老婆を殺害する大学生ラスコーリニコフ。
おれは100人の平和のために
1人の殺しを許されるナポレオンではないのか、という自問自答。

家族の血の因縁。
母・妹の想いと打算。
信じられる友人の存在。
愛する女性の導き。

警察の追及におびえながら、神=良心の問題に絶えず苛まれる。
そして、神を信じながら家族のために身を売る
売春婦への愛に気付くことで、
ラスコーリニコフは再生の道へ踏み出す。

一人を愛することは、世界を愛すること。
愛によって復活の曙光に至ったラスコーリニコフは、
その後、どのように生きただろうか。

『罪と罰』で描かれた、
ひとりの人間の中にある善と悪の心、良心の問題は、
いずれ、世界に存在する善と悪の問題とぶつかるだろう。

なにが“罪”で、なにが“罰”で、
そしてなにが“正義”なのか。

見えざる、悪。
悪者というレッテルを貼られている者は、本当に悪なのか。
だれがそう決めたのか。マスコミ報道は眉唾だ。

表舞台には出てこない世界を支配する者との対決。
『罪と罰』で、ラスコーリニコフは
“たたかいを挑む者”としては描かれなかった。
『カラマーゾフの兄弟』の三男・アリョーシャも
たたかわざる者であった。

ハッと思い起こされたのは浦沢直樹の『20世紀少年』。
ケンジは何とたたかっていたか。
なぜ皆にたたかうよう、啓蒙していたのだろう。

反帝国思想をもつ革命家として死刑判決を受けたものの
恩赦によってシベリアへ流刑され、釈放された
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。
国の圧政的な表現規制に支配される中にあっても、
文学で表現したかったこと、書かなければならなかったことは何か。

“人間は神秘です。それは解きあてなければならないものです。
 もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとは言えません。
 僕はこの神秘と取り組んでいます。”

こう語るドストエフスキーの作品が、
いつの時代も今日的な意義をもって読まれえるのは、
彼の生きていた時代に問われていたことが
今なお問いつづけるべき「何か」をはらんでいるからにちがいない。

いまを生きている。
生かされている、わけではない。
でも、ほんとうにそうか。

ミステリーがあり、人情があり、笑いがあり、スリルがある。
ドストエフスキーの多様なおもしろさを楽しむ。

そして、自由な表現を禁じられた圧制下の中にあって、
(否、いまだって表現は見えない規制に縛られている)
人類の運命を言葉に込めた文学作品として読む。
そういう風に、再読する。
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by hiziri_1984 | 2012-03-18 20:39 | 瀆書体験  

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